No.030 依存症



「駄目ですよ」

久藤くんの言葉に、私はゆるゆる頭を上げた。
彼から優しい眼差しが向けられ、私は思わず泣いてしまいそうになる。
ああ、どうして久藤くんはそんなにも優しい眼で私を見ることが出来るのだろう。
私の言葉を遮るように、久藤くんは手を出しながら強い口調で言った。

「駄目ですよ先生。
ほら、渡して下さい」

私に拒否など出来るはずもない。
しかし私が持っていたのはただの食事用のナイフだ。
これでは満足に死ぬことも出来ない。
だというのに、彼は私をたしなめるように真剣な顔をする。
こんな情けない一人の男に心から同情してくれる彼は、なんて純粋なのだろう。

「死なせて下さい」

私は声を震わせた。
そんな私を見て彼は困ったような顔をする。

「私は死にたいのです」

私が泣き出してみせると、久藤くんは子供をあやすように私の頭を撫でた。
彼の温かい手に、思わず私は眼を閉じる。

「先生がいなくなったら、ボクは生きていけないんですよ。
だから死にたいなんて言わないで下さい」

そうしている間に、不意に彼が囁き、私はゾクリと背筋を震わせた。
歓喜の震えだ。
私がいないと、久藤くんは生きていけないと言う。
それだけ彼は私を愛しているのだ。
私をこの場所に閉じ込めておかなければならない程に。

「先生は何も心配しなくていいんです。
先生はただここにいてくれれば、それで」

彼がこんなにも私を愛している。
その事実に身体中を喜びが駆け巡り、私はぎゅっと彼にしがみついた。
髪に口付けられながら、私は心の中で彼に詫びる。
私は私から死を奪った久藤くんが憎かった。
私はこんなにも私を殺したかったのに、それをさせてくれない久藤くんが憎かった。
私はそれでも「私を愛してくれる」久藤くんが大好きだった。
彼が私を愛してくれるなら生きていても許される気がした。

「先生は、」
「久藤くん……?」

久藤くんが何かを言いかけて、沈黙した。
まるで私の醜い心を見透かされたようで、私は彼から離れようとする。
しかしそれは彼に腕を掴まれ、叶わなかった。

「先生は、ずっとここでボクと一緒にいるんですよ。
だから自殺なんて許しません」

彼の微笑みに、思わず涙が溢れた。
他人から見れば狂っているのかもしれない。
だけど彼の想いは、純粋で真っ直ぐなものだ。
違う、違うんです。
私は逝きたがりで生きたがりの、どうしようもなく中途半端な人間なんです。
生きている価値など無いのです。
――そう叫べば、彼はきっと否定してくれただろう。
しかし、そうではない。
私が泣くのは、彼への愛などというそんな純粋な理由ではない。
こんな私でも久藤くんが愛してくれるなら、生きていられる気がした。
そう思ったのは事実だが、続きがある。
私は久藤くんの愛を利用する私に絶望したのだ。
しかしそんな私を助けようと、久藤くんは更に深い愛情を注いでくれた。
それを繰り返して、繰り返して、やっと気付いた。
私は結局自分だけを愛しているのだ。

「先生、泣かないで」

私は自分が好きで、自分が可愛くて、自分で自分を殺すことなど出来なくて。
久藤くんにすがって、利用して。
ああ、こんな人間は死んでしまった方がいい。
だけど自分が大好きで、自分を殺すことなんて出来ない。
なんて甘い人間なのだろう。
彼は気付いているだろうか。
私がこんな人間だということに。
きっと考えもしないだろう、彼は純粋だから。

「なら、久藤くん。
どうか私を殺して下さい」

それは、私から久藤くんへ捧げる最初で最後の愛だった。
こんな優しい人が、私などに騙されてはいけない。
彼は私を殺し、自由になるべきなのだ。
……しかし、彼はそれをしなかった。
彼は何も答えず、哀しげに顔を歪めながら私を抱きしめただけだった。
ああ、これできっと彼は私から逃げることは出来ない。
私が死なない限り。
その時が来るまで、私は純粋な彼を利用しようとするだろう。
私はどうしようもなく狡い大人だった。



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