ティムは足が速い。
特に逃げ足が速い。
出会った頃からそうだった。
何故かというと答えは明白で、追っ手を撒くのに鍛えたのだそうだ。
……なんの追っ手なんだろうか。

「また逃げられたの?」

突然、金属に反射するような妙な声が聞こえ、俺は振り向いた。
俺達が会議をしていた隣の部屋からガスマスクをした少女が顔を出している。

「だからあなたはこの仕事向いてないって言ったのに」

少女が扉を閉め、俺の方へと歩いてきた。
歩く度に腰に吊ったスプレー缶が揺れる。
あの缶の中身がこいつの武器だ。
俺は表情の読めないガスマスクにヒラヒラと手を振った。

「レティ、帰ってたのか?」
「その名前で呼ばないで!」

マスクの中で声が反響し、廊下中に金切り声が響き渡る。
別にいいじゃないか、と思ったが口には出さない。
こいつと俺は同期だし、そもそも年は俺の方が上なのだから好きに呼んでいいはずだ。

「私をレティと呼んでいいのは、お姉様だけよ!」

レティはずんずんと目の前まで歩いてくるなり、ビッと俺の鼻先を指差しながらそんなことを言う。
……出たよ、お姉様。
俺は呆れて頭をかいた。
お姉様というのはこいつが監視している「時を渡る少年」だ。
時を渡る少年は「少年」と呼ばれてはいるが、女もいる。
こいつの言う「お姉様」もそうだ。
「少年」で一つにまとめてあるのはどちらも十代の間しか力が使えないからだ。

「……悪かったよ、シュレーティンガー」

こいつの名前は長い。
だから本名で呼びたくないんだ。
そんな俺などお構いなしにレティ……シュレーティンガーはぷいっとそっぽを向いてしまった。
元々喋るタイプじゃないのは分かってるし、まあいいだろう。
それよりも、今はティムだ。

「シュレーティンガー、ティムがどっちに逃げたか知らないか?」
「はぁ?
知ってるわけないでしょ。
だって私、隣の部屋にいたのよ?」

……確かにな。
俺は左右に延びる廊下を見回した。
一体どこへ逃げたんだろう。
監視役の俺まで置いていくことはないじゃないか。
……監視役がこんなに離れているのがバレたら、減給されたっておかしくない。
生活に関わるし、さすがにそれは困る。
俺が走り出そうとしたその時、

「何やってんの?カイル」

後ろから頭を軽く叩かれ、俺は振り向いた。
長い髪と足首まであるスカート。
一部では姉御と慕われているというその姿。

「タマ!」
「おねぇさまぁぁあああっ!」

奇声を上げながら、シュレーティンガーがタマに抱き付く。
ガスマスクの女にいきなり抱き付かれるのは恐怖以外の何物でもないと思うのだが、タマは平気らしい。
さすがはお姉様……といったところか?

「あー、よしよし。
カイル、ティムならイチを迎えに行ったみたいだけど」
「イチを迎えに?」
「イチって誰?」

俺とシュレーティンガーが同時に首を傾げる。
タマはやはりというかなんというか、先にシュレーティンガーの質問に答えた。

「ほら、あの白い髪の女の子。
ティムの靴の子だよ」
「……ああ、あのティムの後ろにいつもくっついてる!」

お前もいつもタマにくっついてるけどな。
そんなことは口には出さず、俺はシュレーティンガーに説明してやった。
イチというのはティムの保護しているアンドロイドのことだ。
ティムの愛用しているホバーシューズの充電や制御は彼女が行っている。
しかし、確かイチは……。

「イチはまだメンテナンス中のはずだが……」
「んーと、あたしが挨拶した瞬間にティムに電話がきてさ。
どうやらメンテ終了のお知らせだったみたい」

わざわざ電話で知らせてくれるとは、律儀なことだ。
しかしイチがいない今、そこへ行く手段は限られている。
まさかティムの奴、走って行くつもりなのだろうか。

「そうか……ありがとう」

俺には走って行くような元気はない。
まだどうやって行こうか悩んでいる俺にタマは笑い、ポケットからキーを取り出した。

「送ってあげようか?
あたしとレティ、今日は適当にドライブする予定だったからさ」

タマが持っているのは車のキーらしい。
こういう気の利くところが「お姉様」たる所以なのだろうか。
確かに歩いて行くには遠いし、俺はその言葉に甘えることにした。

「じゃあ悪いが……」
「えぇっ……そんな、お姉様……」

頷く俺とは対照的にシュレーティンガーが不満そうな声を上げる。
おそらく俺がタマの車に乗るのが不満なのだろう。

「レティとのドライブはそのあとでも出来るから、ね?」
「……はい、お姉様……」

それでも、さすがはお姉様。
あっという間にシュレーティンガーを納得させ、タマは駐車場の方へと歩きだした。
シュレーティンガーはまだ少しぶつぶつ言っていたが、渋々納得したようだ。
……今度お詫びに差し入れでもするかな。



タマの運転は荒い。
シートベルトを締めてもまだ心許ないほどだ。
しかも道は少しずつ悪くなっていく。
どうしてこんな郊外に住んでいるんだと恨めしく思えて仕方がない。

「会議だったんだっけ?
どうだった?」

もしかするとティムがまだこの辺りを歩いているかもしれない、と俺は窓の外を注視しながらタマの言葉に耳を傾けた。

「別に、なんともなかったよ。
お偉いさんがチクチクとティムに嫌味を言うだけの内容だった」

隠しても無駄だろう。
そう判断して俺は正直に答えた。
俺の前に座っていたシュレーティンガーがフフン、と鼻で笑う。

「でもどうせ平気な顔で笑ってたんじゃないの、あの子のことだし」

まったく、大当たりだ。
あの飄々としているところがティムの長所であり、短所でもある。
普段はいいんだが、会議くらいは真面目にやって欲しいものだ。

「あの子って、何考えてるのか分からないし。
今回の会議だって自分を狙った人間を逃がしたとかで――」
「レティ」

言いかけたシュレーティンガーを、タマがたしなめる。
きっと触れられたくないに違いない、と気を遣ってくれたのだろう。
しかし、俺は構わないと言い、シュレーティンガーが口にしようとしていた質問に答えた。

「……あいつは、ティムの親友みたいなもんだったんだ。
だからティムは逃がした。
自分を狙わざるをえない事情があったんだと信じてるのさ」

いつの間にか腐れ縁のようになっていて、二人はすっかり忘れていた。
互いに、互いを殺す任務があるのだと。
そんなことは話せば長くなるし、無断で話すのもどうかと思い、俺は適当に話を中断させた。
先に言ってきたシュレーティンガーも、納得したのか曖昧に返事をして窓の外を見た。



「あの家だっけ?」

それから少しして、タマがこちらを振り向きながら前を指差した。
指の先にあるものは一見、普通の家屋にしか見えないが、実は地下には大きな施
設が隠されている。
結局ティムは見つからなかったし、おそらくはイチと一緒にそこにいるだろう。

「ああ、出来れば前まで頼む」

俺の言葉にタマが返事をし、少しスピードを上げた。
その勢いでシートにもたれつつ、俺は額を押さえる。
イチの面倒を見ているのは優秀な科学者達だ。
しかし、俺はあまり奴らが好きではない。
いや、苦手だ、と言った方が正しいかもしれない。
なにせ奴らは、とにかく五月蝿い。

「……耳栓でも持ってくればよかった」
「え、何か言った?」

振り向くタマに前を向いて運転しろと注意し、俺は深いため息をついた。



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