なんということだ。
俺は思い違いであることを祈りながら、再びアリスに触れた。
陶器のように白い肌は、とても冷たい。
「遅かった……か」
俺がもう少し早く着いていれば。
呟きながら右手に力を込めてぐっと握り締める。
助けると約束したというのに。
それだけじゃない。
俺はこの少年にどこか懐かしいものを感じていた。
何故かは分からないが、俺が守らなければならない。
そんな気がしていたのだ。
「なんだこりゃあ!」
顔を上げると、髭を生やした男が部屋へと踏み込んでいた。
男は俺を見るなり、腰に差していた湾曲した刀を抜いた。
「お前、俺の部下をどこへやった!」
この男が盗賊団の頭らしい。
言葉から推測するに、ここには男の部下がいたようだ。
「アリスを殺したのはその部下達だろう。
ならば俺はお前を許すわけにはいかない」
俺も同じく傍らに置いてあった剣を構える。
普通ならば正面に構えるのが正しいのだろう。
しかし俺の身体は自然に、剣を顔のやや上で斜めに構えた。
男が鼻で笑い、口を開く。
「なんだそりゃあ!
それが剣の構え方か?」
まったくだ、と俺は内心で男の言葉に同意した。
これでは攻撃を防ぐのが難しいのではないだろうか。
しかし、俺の身体は「これが正しい」と告げている。
「剣ってのはなぁ……こうやって使うんだよ!」
コンクリートの床が冷たい音を立てた。
男の靴が地面を叩き、離れた音だった。
なるほど、俺の防御が甘いと見てガードごと俺を叩き斬るつもりらしい。
男の刃が剣に当たる前に、俺は後ろに跳んだ。
俺の立っていた位置の床に曲刀が深々とめり込む。
コンクリートを割るほどの力があるとなると、ますます攻撃を受けるわけにはいかないだろう。
あの分厚い刃では、本当に真っ二つにされてもおかしくはない。
一撃でも受ければ、よくて重傷だ。
「クソッ!ちょこまかと!」
男の斬撃を、俺はすべて回避した。
驚いたことに、相手の動きが読めるのだ。
次に繰り出しそうな攻撃、そしてその位置。
どこに来るか分かるのならば、避けるのは簡単だ。
これは男の振りが大きい、というだけの理由ではないだろう。
身体に染み付いた経験だろうか。
「邪魔だ!」
男が床に寝かされていたアリスの身体を蹴飛ばした。
「やめろ!」
俺は緊迫したこの状況で、あろうことか足を止めて叫んでいた。
男が不思議そうな顔をし、突然笑い出した。
「そうかそうか、そんなにこいつが大事かよ」
ニイ、と顔を歪めて笑う男が、襟首を掴みアリスを持ち上げた。
「やめろ!アリスを離せ!」
馬鹿、アリスはもう死んでいるんだぞ。
死体を人質にされて怯むなど。
「冷てーな、もう死んでるじゃねーか。
そんなにこの死体が大事とはな……離して欲しけりゃお前がまず武器をこっちへ投げな!」
分かっている、分かっているんだ。
分かっているのに、俺は剣を投げ捨てた。
男が下品な笑い声を上げながら、剣を踏みつける。
アリスを救えなかった責任をとって、ここで死ぬのも悪くはないかもな。
俺は何故か冷静に、そんなことを考えた。
「お前ら仲良く首をぶった切って国へ持ち帰ってやるぜ!」
男が曲刀を振り上げるのを、俺は黙って見ていた。
まるでコマ送りのビデオを見るように、曲刀はゆっくりとアリスの首へ向かった。
曲刀の切っ先をアリスの丸い瞳が見つめている。
アリスの、丸い瞳が……
「ひぃいっ!?」
男がアリスの身体から手を離した。
糸の切れたマリオネットのように、アリスの身体が床に落ちる。
しかしアリスはゆっくりと起き上がり、男の前に立った。
丸い瞳が男の顔を覗き込む。
「お前、死んでたんじゃ……!」
男が尻餅をついた。
それでもアリスの瞳は男を追っている。
「来るな!なんでもやる!」
男が後退りをしながら命乞いを始めた。
殺さないでくれ、とそれだけを叫んでいる。
必死に早口で喋る男とは対称的に、アリスの口がゆっくりと開いた。
「…………」
俺には聞き取れなかったが、アリスが何かを呟いたのが分かった。
「やめてくれ!殺さないでくれ!殺さ」
カラン。
男の持っていた剣が床に落ちた。
気が付くと今まで目の前にいた男は、跡形もなく消えていた。
「アリス……」
俺の声に応えるように、アリスがこちらを向いた。
その丸い瞳を見た瞬間、寒気がした。
まずい。
まずい、まずい、まずい!
逃げなければならないと、俺は直感した。
アリスの口がゆっくりと開いていく。
アリスは意識がないのか、俺だと気付いていない様子だ。
このままでは俺も消されてしまう。
なんとか黙らせなくては――
「すまない!」
俺は剣を拾って逆刃に持ち、再び構えた。
そして一瞬で距離を詰め、アリスの首筋を殴った。
「…………!」
アリスが何か呟く前に、床に倒れる。
意識を失ったらしい。
「この為の構えか……」
俺の構えは振り下ろすようにして斬るのに適している。
もしも今、刃がアリスの方を向いていたのなら間違いなく首が落ちていただろう。
急所を狙った一撃必殺の構え、というところか。
戦う為ではなく、殺す為の剣。
本当に俺は何者だったのだろう。
「しかし、どういうことだ?」
アリスの身体は冷たい。
俺だけではなく、男もアリスが死んでいると判断した。
死体が動くとすれば、操っている者がいるはずだ。
しかしそれでも出来ることは限られているし、死体であれば独特の腐臭がする。
それがないのだからアリスは操られているのではない。
ないとして、だ。
ならばアリスは何者なんだ?
「……とにかく、ここから出よう」
俺はさっさと外に出ることにし、アリスを背中に担いた。
軍鶏と話せば何か分かる気がしたからだ。
俺は血の付いた本棚と上半身だけの男がいた部屋へと戻った。
「……血?」
アリスのドレスは穴だらけになっている。
攻撃されたと見て間違いないだろう。
しかし、アリスの身体に傷は無い。
血が出た様子もない。
それは何故か。
死体だから血が出ないのか、或いは――
「初めから血が通っていない?」
もしもアリスの身体が機械で出来ているとすれば、血が出ず体温がないことにも納得がいく。
しかし、機械があんなに上手く喋れるとも思えない。
「アリス!アリスー!」
廊下から聞き覚えのある声がする。
どうやら軍鶏が来たようだ。
「あ、お前!」
俺が手を振ろうとすると、軍鶏が驚いたような顔でこちらに走って来た。
俺がアリスを助けるとは思わなかったのだろう。
「お前がやったの?
ここのやつらみんな?」
「それが……」
俺は正直に説明した。
ここに来た時から、先程アリスを連れて部屋を出たところまで。
「お前、見たんだな」
ただ一言、軍鶏はそう言った。
それが何を意味しているのかは分からない。
ただ軍鶏はアリスのことを色々と知っているようだし、秘密のどれかについてだろう。
俺が頷くと背後で唸り声が聞こえた。
「あれ……ここは……」
「アリス!」
アリスが俺の背中できょろきょろしている。
先程のことは覚えていないらしい。
「無事か、よかっ……」
「うわぁああっ!」
よかった、と言おうとしたが、アリスが突然暴れ出した。
危ないからやめろと言っても、従う気は無いらしい。
仕方なく俺はアリスを下ろしてやった。
「何でお前が僕を担いでるんだよっ!
触るなって言っただろ!信じらんない!
さいってー!」
アリスは俺に向かって舌を出すと、軍鶏の帽子を引っ張り、走って行ってしまった。
どうやら俺が助けに来たとはこれっぽっちも思っていないらしい。
俺は溜め息を吐き、ほとんど見えなくなったアリス達の背を追った。
「ごめん!」
俺が帰るなり、玄関に立っていたアリスがいきなり頭を下げた。
「お前が助けてくれたんだって、軍鶏に聞いた。
僕はてっきり軍鶏が助けてくれたんだと思って、あんなこと言って……」
なんだ、意外と素直じゃないか。
俺は「気にしてない」と手を振った。
「お前は僕のことを、色々知ってしまった。
それは出来れば誰にも言わないで欲しい。
一部の奴らしか知らないからだ」
「ああ、勿論」
アリスの「秘密」がどこからどこまでの範囲を示しているのかは分からないが、おそらくそれは重大な秘密なんだろう。
下手をすれば国が混乱するほどのものかもしれない。
「これでお前も仲間ってわけだ」
軍鶏が帽子を被り直した。
やはり彼は色々なことを知っているらしい。
もしかするとアリスが唯一、気を許せる存在なのかもしれない。
「それじゃあこれからも僕の為に頑張ってよね、燕」
アリスが若干恥ずかしそうに言う。
「燕?」
「お前の名前。
お前は今日から僕の仲間で、これからもここに住むんだ。
名前が無いと不便じゃないか」
名前、か。
そういえばまだ名前さえ思い出していなかったんだ。
彼は彼なりに気を遣ってくれているらしい。
「燕尾服が似合うから、燕。
なんの捻りもなくて悪いけど」
「いや……ありがとう」
俺は微笑みながら礼を告げた。
アリスはどこか嬉しそうに笑っている。
昨日は高圧的な態度だと思ったが、本当は素直で優しい子のようだ。
「じゃ、ちょっと遅くなったけど夕飯の準備始めようかな」
軍鶏が踵を返してキッチンに向かう。
俺は少し疲れたから、と部屋で休ませてもらうことにした。
軍鶏も快くそれを承諾してくれ、俺は与えられた部屋へと戻った。