「ん……?」

慣れない陽の光を浴びて、俺は目覚めた。
ああ、そうだ。
俺は何も覚えていなくて、何も知らない場所に来たんだった。
少しどころじゃなく憂鬱な気分だ。
自分が何者だか分からないというのは非情に恐ろしい。
極端な話、自分が犯罪者だった可能性だってあるのだから。
だが「我思う。故に我あり」なんて言葉もある。
ここでそれを疑問に思っている俺は俺なのだ。
記憶が無いことを知っている。思い出そうとしている。
過去は関係なく、それが今の「俺」なんだろう。
一人で勝手に納得し、俺は部屋を見回した。
この部屋にもアリスの絵が飾られていた。
すべての部屋に飾られているのだろうか。
ベッドは柔らかくて随分大きい。
それ以外にも部屋にある家具は全て一人で使うには十分すぎる大きさのような気がした。
一瞬自分が縮んだような気がし、俺は頭を少し振った。
その時、大きなテーブルに白いモノが乗っているのを発見した。
便箋のようだ。中には何か入っている。
俺はその中のメモに目を通した。

『服はクローゼットの中。地図はこの便箋に一緒に入ってる。
準備出来たら食堂奥のキッチンまで来ること  軍鶏』

便箋の中には地図と、部屋の鍵が入っていた。
クローゼットの中には立派な燕尾服がある。
執事、か。
俺は苦笑しながらそれに袖を通した。
妙に着慣れた感じがする。
もともとこういう職業だったのだろうか。
壁にかかっている時計を見ると朝の七時半だった。
少し身体が重い気がする。
いつもはもう少し早く起きていたのかもしれない。
目覚まし時計をセットしていたわけではないから、きっとそういう習慣だったのだろう。
特に意味もなく部屋に鍵をかけ、俺は食堂へ向かった。



「似合うじゃん」

キッチンで軍鶏が朝食のサラダを作っていた。
エプロン姿の軍鶏は、俺を見るなりそう言って笑った。

「つーか、起きるの早いね。
アリスなんて八時まわっても起きないんだもん」

それはアリスが遅すぎるだけだと思うのだが。
それなのに毎朝彼はこんな時間からアリスのために朝食の準備をしているのか。
なんというか、気の毒だな。

「手伝おうか?」
「あ、いーよいーよ」

アリスは味の好みうるさいから、オレの見て勉強してて。
そう言って軍鶏は笑った。
手馴れた様子を見ると、随分前からこうして働いているようだ。

「目玉焼きは最後に焼いて、それからアリスを起こしに行くんだよ。冷めるから」

軍鶏はそう言って先にサラダを完成させた。
毎日少しずつメニューをかえているらしい。
いろいろとアリスの好みを教えてもらううちに、時計は八時を過ぎていた。

「そろそろアリス起こさなきゃ」

目玉焼きを三人分、皿に乗せて軍鶏はエプロンを解いた。
一緒においでよ、と言われたので後について行く。
改めて思う、ここは本当に広い。
少し歩いてようやくアリスの部屋にたどり着いた。

「アリスー」

軍鶏が一声かけて扉を開けた。
アリスは枕をぎゅっと抱きしめて眠っている。
愛らしいフリルの付いた長袖のパジャマに、手袋。
……手袋?
そういえば昨日も手袋をしていたような気がする。
ドレスを着ていたから、たいして気にしていなかった。
寝る時までする物ではないと思うんだがな。

「アリスー、もう八時だぞー」

軍鶏が呼んでもまったく起きる気配はない。
仕方がない。

「アリス」

俺が揺り起こそうと手を伸ばした時だった。
顔に軽い衝撃を受け、俺は少しよろめいた。
枕だ。枕が飛んできた。

「ちょ、お前っ……!」

軍鶏が慌てたように俺を見ている。
何事かと枕を下ろすと、アリスが枕を投げた体勢のまま震えていた。

「……っな」
「え?」

アリスが震える唇を動かしている。

「触るなっ!」

……触るな、と言われたのか?
俺は起こそうとしただけなのに。
別に何かしようだとか、そういったことはこれっぽっちも思っていない。

「アリス、」
「五月蝿い!僕に触るな!」

名前を呼ぶと、今度はベッドの端にあったテディベアを投げられた。
地味に痛い。
なんだこの嫌われ方は。

「あ、あのな、アリス……」

口を開いた軍鶏が睨まれた。
軍鶏はそれっきり肩をすくめて黙っている。

「着替える!出てけ!!」

今度は時計を投げられそうになったので、俺は軍鶏と共に慌てて部屋を出た。
軍鶏は深々とため息を吐いている。

「俺のせい……なんだろうな」
「やー、仕方ないよ。教えてなかったし」

もう一度ため息を吐く軍鶏。
悪いことをしてしまった。
今のアリスでは、せっかく作った朝食もひっくり返しそうな気がする。

「アリスはね、肌を見せることとか、触られたりするのとか、大嫌いなんだよ」

あ、あと口を塞がれるのもね、なんて軍鶏が笑った。
それで昔酷い目にあった奴がいたとかなんとか。
それは俺には関係がないとして……。
なるほど、見られたり触れられたりするのが嫌だから手袋をしているのか。
しかし、そこまで嫌がるようなことなのか?

「そのうち分かるよ」

軍鶏が苦笑しながら言ったのが気になった。
その続きを問おうとした瞬間、部屋の扉が開いてアリスが現れた。
アリスはすっかり着替えていて、黒いドレスに同じく黒いレースの手袋をしている。
眉間に皺を作っているところを見ると、機嫌はまったく直っていないようだ。

「アリス、あのな」
「分かってるよ」

軍鶏がフォローを入れる前に、アリスが口を開いた。

「そいつは知らなかったって言うんでしょ。
分かってるよ、そんなこと」

早く食べなきゃ冷めるよ。
そう言ってアリスはスタスタと歩き始めた。



「軍鶏、僕ブロッコリー嫌いだって前に言ったんだけど」

アリスが皿に残ったブロッコリーをまとめてフォークに刺しながら不満そうに声を上げる。

「何でも食べなきゃ駄目だよ、アリス」

軍鶏がそう諭しても、アリスが食べる気配はない。
おそらくニンジンやピーマンも嫌いに違いないのだろうな、となんとなく思った。

「貰おうか」

小声で俺はアリスに言った。
こくこくと笑顔で頷くアリス。
さっきまで深く刻まれていた眉間の皺はすっかり消えている。
現金な奴だ。

「それでさー、アリス」

軍鶏がふと横を向いた隙にさっとアリスが俺の口にフォークを突っ込んだ。
さっきブロッコリーをまとめて突き刺してたやつだ。
むぐ、と思わず声が漏れる。

「なんか最近、盗賊団が国の近辺で暴れまわってるらしいよ」

こちらに向き直った軍鶏は口を押さえている俺を見て少し首を傾げたが、すぐに苦笑した。
アリス、バレてるぞ。

「ふーん、なんとかしなきゃねぇ」

アリスは頬杖をついて窓の外を見ている。
なんてわざとらしい。

「アリス、可愛いから拉致られちゃうかも」

くくく、と軍鶏が笑った。

「まさか」

そう言ってアリスも笑っている。

「あ、でも逆にそれいいかも。
ワザと捕まって中から倒しちゃう、みたいなさ」

思いついたようにアリスが言うと、軍鶏は首を振った。
それだけはやめてくれ、と真顔で言うところを見ると、本気で心配しているようだ。

「えー、おもしろそーなのに」
「絶対駄目っ!」

二人は仲がいい。
俺が来る前は二人で住んでいたのだから、当然だといえばそうなのだが。

「はいはーい、諦めまーす。
ごちそーさまー、僕出かけてくるー」

アリスはさっさと皿を積んで出て行ってしまった。
……間違いなく、捕まりに行く気だ。

「軍鶏、追わなくていいのか?」

皿を片付ける軍鶏に聞いてみる。
軍鶏はうーん、と首を捻った。

「正直、一番手っ取り早いとは思うけどね。
アリスがそんな盗賊団如きに負けるはずないし。
ただ、万が一を考えるとなー」

確かに。
あのアリスが簡単に負けるとは思えない。
アリスはこの国で一番強いというしな。
しかし、軍鶏の言う通り、何事も万が一があるのは確かだ。

「やっば、心配になってきた!
オレ、アリス探しに行こうっと!」

ごめんこれ洗っといて!と軍鶏は皿を指差して走って行った。
本当に仲がいいな、二人は。
仕方なく俺は食器を洗い始めた。
俺も探しに行きたいところだが、城の外ですら何があるか分からない俺が行っても無駄だろう。
アリスは思ったより子供っぽいところがある。
言い出したら聞かないところとか、嫌なものは嫌って態度とか。
軍鶏はまるでアリスの兄のようだと勝手に思ってみた。
……そういえば軍鶏は軍鶏、という名前だがアリスの名前は聞いていない。
軍鶏は三月ウサギだが、そうは名乗らずに軍鶏と名乗っている。
ではアリスは?
都合がいいから、という理由だけで親しい間柄の人間……例えば軍鶏にまで役職名で呼ばせたりするものだろうか?
こうして考えるとアリスは不思議な人間だと思う。
まるで少女のような顔立ちで、肌を見せることや触れられるのを嫌って、妙に子供っぽくて、本当の名前を名乗りたがらない。
……何故だか、誰かに似ている気がした。
そんな人間がそうもいるはずはないのだが。

「ふう」

食器を全て洗い、俺は一息ついた。
さて、どうしたものか。
まずはこの城の中を歩いてみるかな。
そう思った時だった。

「軍鶏!!」

叫びながら、食堂に複数人が転がり込んで来たのは。
俺が驚いていると人々は口々に「軍鶏いないよ?」「いない」と言ってうろたえ始めた。

「あれ、あなたは昨日の……」

ふと一人が俺を見て言った。
服にはハートが三つ描かれている。
ハートの三番、ということでいいのだろうか。
俺は少し頭を下げて「どうかしたんですか」と問うた。

「そうだ!大変なんです!
アリスが盗賊団に捕まったのをトランプの一人が見たって……!」

おいおい、本当に捕まったのか、アリス……。

「なんでもアリスはトランプに笑いながら『オトリ捜査だからね』なんて伝えてから攫われて行ったとかですけど。
それでも相手は四十一人!アリスを信じていないわけではないですけど、一人では少し不利ではと……」

四十一?
その盗賊団とやらは四十一人もいるのか!?
アリスがどの程度強いのかは分からないが、数が多い相手に一人で挑むのはさすがに無茶だろう。

「盗賊団がどちらに向かったか分かる方は」
「私、盗賊団のアジトの場所なら分かります!」

手を上げたのはダイヤの二番。

「申し訳ありませんが、近くまで案内してくれませんか。
それ以外の方は軍鶏を探して連絡を」

トランプ達がどよめいた。
おお、とかまあ、とか言いながら、俺の顔をまじまじと見ている。

「今動けるのが俺だけなら、俺が助けに行きます。
アリスは一応……主人ということになっているので」

トランプ達は不安そうな顔をしながらも、軍鶏を探しに走って行った。
ダイヤの二番が「私について来て」と俺の前を走る。
敵は四十一人。
一人ひとりがよほどのレベルではない限り、なんとかなるな。
無意識にそう思った自分に寒気がした。



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