「残念だが君には死んでもらわなければならない」
「どうしたの、――。そんなことを言うなんて」

崖の上に、男と少年が立っていた。
あれは誰だ?

「俺は、君を殺さなければならないんだ」
「僕は死ぬわけにはいかない。それは君も分かっているはずだよ」

銀髪の男が剣を抜いた。
同時に、金髪の少年が銃を抜く。
二人はしばらく争っていた。
やがて、崖から落ちたのは男の方だった。
男の銀髪が揺れる。
その男は笑っていた。
少年は泣き出しそうな顔で、男を見ていた。
ああ、そうだ。
あの男は俺だ。



「気がついた?」

赤い髪の少年が俺の顔を覗き込んだ。
俺は柔らかいベッドに寝かせられていた。
ボロボロになった服の下の身体には包帯が巻かれている。

「薔薇の庭園に落ちたから、傷だらけなんだよ。
もっとも、棘の少ない薔薇だったから、きっとその傷は別の原因があるんだろうけど」

そう言いながら少年は、俺の額のタオルを取った。
身体を起こすと、頭が少し痛んだ。

「ここは君の家なのか?」

俺が問うと少年は目を丸くし、首をかしげた。
辺りを見回すと、そこは随分大きくて可愛らしい部屋だった。
壁には……あれは昔見たことがある。
アリスの絵本の挿絵が飾ってあった。

「オレはここに住んでるけど、オレんちじゃないよ。
アリスの家、ってことになるんだと思う」

アリス?
この家の主の名前か。
なるほど、それであんな絵を飾っているのかもしれない。
随分と裕福なんだな、この家の女主人は。

「あ、起きたんだ」

扉の開く音がして、俺はそちらに目をやった。
愛らしい薄いピンク色のドレスを着た金髪の――少年。そう、少年だ。少年が部屋に入ってきた。

「アリス!」

赤い髪の少年が叫んだ。
この少年の言うアリスとは、彼のことらしい。
アリスだなんて言うから、てっきり女だと思った。
アリスと呼ばれた少年は腕を組んでこっちをまじまじと見ている。

「何その顔。僕が女だと思ったんだろ」

正解、まったくその通りだ。
顔立ちは、ぱっと見ただけでは男か女かの区別が付かない。
そのせいかドレスも不思議と似合っている。

「気にしないで、これは本名じゃないから。
この格好はただの趣味だよ」

そう言ってアリスはくるりと一回転して見せた。
レースがふわりと浮き上がる。

「でもまぁ、ここではみんな僕をアリスって呼ぶし、そっちの方が都合がいいからね。
僕の名前はアリス、こっちのは軍鶏。それで、お前は?」

俺は自分の名前を言おうとした。

「俺の名前は――」

だがしかし、その先が分からなかった。
俺の名前、なんだっけ。思い出せない。
どうしてここにいて、何故傷だらけなのか。
何も分からなかった。

「言えないの?それとも、まさか分からないの?」

アリスが俺の顔を覗き込む。
軍鶏がこちらを心配そうに見ている。

「分からない。何も」

俺は首を振った。
驚いたことに、何も思い出せない。
さっきのアリスや、例えば猫を見せられて「これが何か」と聞かれれば答えられる。
しかし、自分のことが何一つ分からなくなっていた。

「まあいいや。
この国じゃそんなことは重要じゃないし」

混乱している俺とは対照的に、アリスはなんとも思っていないようだった。

「不思議の国のアリスは知ってる?」

時計ウサギを追いかけてアリスが不思議の国を冒険する話だ。
それは確かに覚えている。

「いいか、この国はまさにそれだ。
この国の人間はみんなアリスの登場人物と同じ肩書きを持ってる。それに見合う能力もね。
お前もこの国にいる間は、それを持ってもらうよ」

アリスはそんなわけのわからないことを早口でまくし立てた。

「ようするに、お前がアリスの登場人物の一人になるってことだよ。
分かる?ここが絵本の中の国だとでも思えばいい。
アリスはもちろんアリスで、オレは三月ウサギ」

軍鶏が簡単にそう説明した。
なるほど、それでアリスと呼ばれているのか。

「軍鶏!チェシャ猫が空いてたよね?」

それを聞いた軍鶏は妙に大げさに驚いていた。

「ええっ!こんな新入りに猫を任せるのか!?」

チェシャ猫……確かアリスに謎めいたアドバイスをする登場人物だ。
それに俺がなる、と?

「こいつ、見たところ弱っちくは無さそうだし、盾くらいにはなりそうだ。
それによく働きそうだし。
お前も仕事が減るし、一石二鳥じゃないか」
「まあね」

アリスと軍鶏はこそこそと話し合った結果、俺をここで働かせることにしたらしい。
俺の意見は聞いてくれそうもない。

「お前だって行くところが無いんだろ?
だったらここで働けばいい。
食事も部屋も用意するし、給料だって出す。
それにアリスのところにいると言えばこの国では便利に働く。
お前にも悪い話じゃないよ」
「確かに。一体どんな仕事だ?」

アリスの言うことは正しい。
右も左も分からないうちは、ここに置いてもらうことにしよう。

「ただ僕に従えばいい。
掃除と洗濯と料理と僕の相手。
簡単に言えば執事みたいなものだよ。
もちろん、軍鶏も手伝ってくれる」

……なんて呆れた注文だ。

「それを、俺にやれと?」

ため息を吐きながら俺が言うと、アリスは笑顔で頷いた。
そもそも俺にそんなことが出来るのだろうか。
掃除洗濯はまあ、なんとかなるだろう。
しかし、男の俺に料理なんて……。
頭に浮かんだ料理の作り方を次々と思い浮かべてみる。
……作れる。一つ残らず、レシピが分かる。
これはなんとかなるかもしれない。

「やってくれるよね?」

アリスが首を傾げて笑った。

「……ああ」

俺がそう答えると、二人は満足そうに笑った。

「そんなことより服。
新しいの軍鶏に出してもらって」

アリスが軍鶏に服の場所を説明する。
どうやら俺の部屋をどこにするか相談しているらしい。

「うんうん、あの部屋か。
おーい、こっちだってさ」

俺は軍鶏の後に続いた。
部屋の外には長い廊下が続いていた。
随分広い家だ。
家というか……城のようだ。

「掃除が大変そうだ」

俺がそう言ったのと同時だった。
軍鶏がナイフを振りかざしたのは。
状況を判断している暇は無く、俺はなんとかそれをかわした。

「ちっ!」

再び軍鶏がナイフを振り上げた。
が、振り下ろす前にそれを叩き落とす。

「あっ……!?」

もしかするともう一本ナイフがあるかもしれない。
俺は瞬時に後ろに回り、軍鶏を床に組み伏せた。
軍鶏の腕が悲鳴を上げている。
このまま力を込めれば骨が折れるだろう。

「ストップ!」

アリスが叫んだ。

「僕がやらせたんだよ!軍鶏を離せ!」

アリスが?
俺はすぐに軍鶏を解放した。
軍鶏は腕を押さえている、やりすぎたかもしれない。

「今の動き、なかなかよかったよ。
お前……もしかすると、とんでもない奴だったんじゃない?」

クスクスとアリスが笑った。
そういえば、今の動きは完全に無意識だった。
殺されそうになった、とはいえあんな動きは簡単には出来ない。
ということは、この動きは身体に染み付いたものだ。
俺は、日常的に命を狙われる人間だったのか?
途端に、自分が恐ろしくなった。

「大丈夫。その力を僕のために役立ててくれるならね。
ほら、もう着替えて今日はゆっくり休むといい」

そう言ったきり、アリスは笑いながら廊下の反対側へ消えた。
アリスのために……か。

「アリスはいつも命を狙われているからね」

軍鶏が呟くように言った。

「アリスってのは名前じゃなくて、この国の主っていう立場なんだ。
だから国の中にも外にもアリスの地位を狙う奴がいる。
アリスを殺したやつが次のアリスなんだよ」

だからアリスを守る人間が必要なんだ、と軍鶏は言った。
それで俺の実力を確かめたわけか。

「いっとくけど、今のアリスは前のアリスを殺したんじゃないよ。
前のアリスが病気で死んで、国の外も中も戦争だった。
そこへやってきた今のアリスは誰よりも強くて優しかった。
だから国のやつはみんな納得してアリスを譲ったんだよ」

誰よりも強い、か。
君よりも強いのか?と聞くと軍鶏は笑った。

「オレなんか足元にも及ばねーよ。
だけど、アリスの手を煩わせるわけにはいかないから、オレらがいるんだ」

なるほど。
アリスは随分と強いらしい。
それはますます逆らわないほうがよさそうだ。
分からないことが多すぎる。
前にいた国とは随分勝手が違うようだ。

「ここ、お前の部屋。
地図と服は後で持ってくるから、もう寝てれば?」

ありがとう。
俺は軍鶏に礼を言ってベッドに寝転がった。
分からないことと、新しく覚えたことが多すぎて今日は疲れた。
身体も痛むし、もう眠ってしまおう。
気になるのは夢に出て来たあの金髪の少年だ。
俺は彼を随分昔から知っている気がする。
……いや、考えるのはもうやめよう。
とにかく眠ってしまいたい。

「おやすみ」

誰にともなく呟いて、俺は目を閉じた。



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