「兄貴、音叉あるか?」

マサムネが襖を乱暴に開け、勝手に部屋に入ると同時にそんなことを言ってきた。
先程から聞こえてくるギターの音が妙だと思っていたが、やはり音程がズレていたようだ。
音叉は確かに持っている。
しかしそんな物を使わなくとも、音のズレくらい自分の耳で合わせられるだろうに。
それが出来ないようではマサムネもまだまだだな。
俺がやんわりとそれを伝えると、マサムネは眉を八の字に寄せて反論してきた。

「俺様だってそれぐらい出来るっつーの!
ただ、妙に音が合わねーから念の為に借りに来ただけだ!」
「そうか……ああ、あったぞ」

俺は音叉を試しに鳴らしてから、マサムネに手渡した。
音はズレてはいないようだ。

「おー、わりぃ」

マサムネは音叉を受け取るなり、そそくさと部屋に戻って行った。
早く弾きたいのは分かるが、なんともせわしない奴だ。
しかし、妙に音が合わない、か。
マサムネの部屋から再び聞こえ始めたギターの音と音叉の音は確かに上手く合わない様子だ。
マサムネの合わせ方のせいではないとすると、弦の方に問題があるのかも知れない。
弦が古くなっていたり、錆びてしまっていたりすると、いくらやっても音が合わなくなるものだ。
新しい弦を持って行ってやるか……。

ばつんっ。

…………?
俺が新しい弦を手に取ったのとほぼ同時に、マサムネの部屋の方から何か音がした。
マサムネのギターも止まっている。
あれは何の音だったか、確かに聞き覚えのある音なのだが。

「マサムネ、どうかしたのか?」

声をかけても返事は無い。
どうせ新しい弦を持って行くつもりだったので、俺はマサムネの様子を見に行くことにした。






「入るぞ?」

一応、襖の前で確認する。
やはり返事は無い。
部屋を出た気配は無かったが、何かあったのだろうか。
俺は悪いと思いながらも、すっと襖を開けた。

「……マサムネ?」

部屋に確かにマサムネは居た。
しかし、マサムネが何をしているのか、それが分からなかった。
畳の上にはギターと音叉、そしてその傍らでうずくまっているマサムネ。
頭が一瞬遅れてようやく、左目に映る景色を理解し始める。
マサムネは冷や汗を流し、身体を震わせながら右目を押さえていた。

「っマサムネ!?」

理解すると同時に、俺は手にしていた弦を放り投げてマサムネに駆け寄った。
マサムネは畳に爪を立て、右目を押さえながらガタガタと震えている。
右目が痛むのだろうか。

「マサムネ、大丈夫か!?」

俺は反応しないマサムネの肩を掴み、必死で揺さぶった。

「右目が痛むのか!?
マサムネ、どうしたんだ……!」

大丈夫か、と言いかけたところで、やっとマサムネが反応を返した。
畳に爪を立てていた手が、ぎゅっと俺の袖を掴む。
反応したことにひとまず安心したが、もう片方の手は右目に当てられたままだ。

「どうしたんだ?
目が痛むのか?
医者を呼んだ方がいいか?」

俺はマサムネの背中を撫でながら、早口で問うた。
それで少しは落ち着いたのだろうか。
マサムネは首を横に振り、ようやく右目から手を離した。
手の下には、いつも通り眼帯がある。
なのでマサムネの右目がどうなっているのかは分からない。

「大丈夫か?」
「……ん」

マサムネはまるで甘えるように、俺の胸に顔を埋めている。
しかし身体はまだわずかに震えているようだ。

「――マサムネ、本当に大丈夫か?
医者を呼んで来るから少し離してくれないか?」

こうして頼られるのも悪くは無いが、医者を呼ぶのが先だろう。
万が一何かあってからでは遅い。

「っ大丈夫、だから……!」

マサムネは再び首を振り、ぎゅうっとしがみついてきた。
行くな、と言いたいらしい。
さて、困ったぞ。
俺はどうしていいのか分からず、仕方なくマサムネの頭を撫でた。






「あ……にき、わりぃ……。
もう平気だからよ……」

少ししてマサムネが、ばつが悪そうに手を離した。
俺は構わないと答え、顔を上げたマサムネを凝視する。
やはり、眼帯越しでは何も分からない。
そんな俺の考えを汲んだのか、マサムネは少し恥ずかしそうに言った。

「右目は大丈夫だ……なんともねーよ。
ちょっと驚いただけだ……」

驚いた?
何に?
マサムネは目をそらしながら畳を指差す。
正確には、畳の上のギターを。

「音を合わせてたら弦が切れちまって……。
切れた弦が右目の方に跳ねて来て……それで、びっくりしたんだよ」

マサムネの言う通り、畳の上のギターは弦が一本ぷつりと切れてしまっている。
さっき聞こえたあれは弦の切れる音だったのか。
そんな簡単に切れてしまうとは、やはり弦が古くなっていたらしい。
音を合わせている最中は、音をよく聞こうとギターに耳を近付けてしまうものだ。
その時に運悪く弦が切れてしまったのだろう。

「本当にそれだけか?
弦が当たったりはしていないか?」

俺はマサムネの左頬に手を添え、汗で貼り付いた前髪を払い、どこにも怪我は無いか確かめた。
マサムネは困ったように視線を泳がせている。

「ほんとになんともねーって。
弦もかすってすらねぇし。
……なのにあんなビビって、俺様としたことが……」

先程のことが恥ずかしかったらしいマサムネはぶつぶつ言ってるが、それは仕方のないことだろう。
俺が右目を失ったのは自業自得だが、マサムネは違う。
訳の分からないまま、病で突然光を失ったのだ。
右目のことで過敏になるのは無理も無い話で、むしろ自然であると言える。
自業自得で右目を失った俺でさえ、右側に何かが近付くと気分が悪くなるくらいだ。

「なんともねーだろ?
いつまで人の顔ジロジロ見てんだよ。
それともまた考え事か?」

マサムネに呆れたように言われ、俺は添えていた手を離した。
どうやらいつもの調子に戻ったらしい。
もう心配は無さそうだ。

「ああそうだ、マサムネ。
新しい弦を持って来たから、それに替えるといい」

俺はそこでやっと放り投げた弦の存在を思い出し、それを拾い上げた。

「おおー、さすが兄貴だな!」

マサムネは嬉々として弦を受け取り、早速ギターに張り替え始めた。
……さすが兄貴、か。
弟に頼られるのはやはり嬉しいものだ。
マサムネはまだ子供で、今日のように弱い一面もある。
兄である俺がしっかり支えてやらなければ。

「どうだ!」

俺が決意を新たにしている間に、マサムネは弦を張り替えたらしい。
今度はどこにも音のズレは無い。
完璧なチューニングだ。

「見たか俺様の実力!
音叉なんざ使うまでも無かったな!」

マサムネは得意げにギターをかき鳴らした。
そして満足したのか、ギターを置いて袖口で汗を拭う。

「ったく、変な汗かいちまった」

先程の冷や汗だろう。
マサムネは着物がくっついて気持ち悪いのか、胸元や背中を引っ張っている。
そうしたいのは俺も同じだ。
まったく、マサムネのせいでこちらまで冷や汗をかいてしまった。
早く風呂に入らなければ風邪をひくかもしれない。

「マサムネ、早く風呂に行った方がいい。
風邪をひいてしまう」
「はぁ?
兄貴が先に入れよ。
俺様は兄貴と違って病気なんざしねぇからな」

マサムネは手をひらひらさせるが、そうはいかない。
確かにマサムネの言う通りかもしれないが、弟に風邪をひかせる兄がどこにいるというのか。
何より、マサムネには早く湯に浸かって少しでも気持ちを落ち着かせてもらいたい。

「――じゃあ、一緒に入ればいいだろ」

心配する俺に、マサムネはさも名案だとでもいうようにそう言った。

「それは駄目だ」
「なんでだよ。
俺様が背中流してやるって言ってんのに」
「もっと駄目だ」

俺はきっぱりと断り、マサムネに先に入るよう納得させた。
右目や眼帯のことを持ち出せば、渋々という様子だったが、マサムネは大人しく風呂へ向かったようだ。
俺はギターに視線を移す。
これからはきちんと気を配っておかなければ。
最悪なのは、弦がマサムネの左目に当たった場合だ。
既に見えない右目よりも、残った左目の方がはっきり言って大切だ。
しかし、マサムネは右目を怖がる。
それは俺も同じなので気持ちは分かるが、本当に大切なのは左目の方なのだ。
幸い、今回は両目共に何とも無かったが、また切れた弦が跳ねる可能性は無いとも限らない。

「もしもこれがただのギターなら、とっくに切り捨てているところだ」

都合の悪い可能性は減らすべきだが、代々受け継いできたものだし、何よりマサムネが気に入っているのでそんなことはしなかった。
――部屋に戻ったら、ベースの弦を交換しよう。
ギターの弦ほど細くはないので滅多に切れるとは思えないが、まあ念の為だ。
そんなことを考えながら俺は音叉を拾い上げ、マサムネの部屋を後にした。



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