「では、今日の授業はこれでお終いです」
 起立、礼。
「明日は小テストがあるので、早く帰って勉強するように。皆さんの成績が私の成績に関わりますからね」
 私の冗談と本気が半々の発言は無視し、続々と生徒達が席を立つ。当然彼も。私は俯いてぎゅっと手を握り締めた。
「あっ、すみません」
 勇気を振り絞り、私は申し訳なさそうな声を出した。教室を出掛かった生徒達が何事かと足を止める。
「今日の日直の――久藤君は、少し残って下さい」
 ああ、彼が日直で本当に良かった。もしそうでなければ、私は何一つ言えずに教室から出る彼の背中を見送っていただろう。ひとつでも口実があって本当に良かった。
 こっそりと胸をなで下ろす私に、久藤君が「はい」と答え、立ち止まる。素直に従う彼に、罪悪感がちくちくと胸を刺した。彼にも用があるだろうに、教師であることを利用して私用で呼び止めるなど、彼に申し訳ないのではないか。
 そうこうしてる間に教室には私と彼の二人だけになってしまっていた。他の生徒達はあっという間に下校してしまったようだ。実際はあっという間では無く、私が彼への謝罪を心内で延々と続けていたからそう感じたのかもしれないが。
「なんですか、先生」
 久藤君の声で私はハッと顔を上げた。
 そうだ、早く言わなければ。それこそ彼に時間を取らせることになるのではないか。分かっているのに、それが出来ない。いや、出来ないはずがない。ただの世間話だ。私は腹をくくった。
「今日はバレンタインデーでしたね」
 まずいくらい声が上擦ったのが自分でも分かった。これではまるで私がわざとらしい演技をしているようではないか。
 明らかに不自然な咳払いを付け足しても、気付いているのかいないのか、久藤君はいつも通りの表情で口を開いた。
「そうですね。先生はいくつくらいチョコ貰えましたか?」
 えっ、と私は一瞬怯んだ。それは私が彼にするはずの質問だったからだ。
「先生は人気があるから、クラスのみんなから貰ったんじゃないですか?」
「え、えぇ、まあ」
 彼の指摘通り、私はクラスの女生徒から幸運にもそれなりの数を貰うことが出来た。もっとも、好意からの物ではなくホワイトデー目的かもしれないが。
 彼の質問には些か焦ったが、冷静になってみると好都合だったかもしれない。今なら私はたった一言で、同じ質問が出来るのだ。
「久藤君はどうでしたか?」
 今度は上擦ることもなく、平静な声が出た。
 はたして久藤君は何と答えるだろうか。私は黒板を消すふりをして背を向け、返答を待った。
「ええ、いくつか貰えました。義理ばかりですけど」
 久藤君はいつもの声で言った。
 答えの代わりのように、私の手からするりと黒板消しが滑り落ち、床を転がった。チョークの白い粉が舞う。拾い上げようとした私が思わず咳き込むと、驚いたように久藤君がこちらへ駆け寄ってきた。
「大丈夫ですか?」
 ああ、いけない。久藤君まで粉塗れになってしまう。私は大丈夫ですよ。
「――義理ばかりだなんて、嘘でしょう」
 私の口から出たのは、言いたかった言葉とはまったく違う言葉だった。これは本当に私の口なのだろうか。久藤君も私がそんなことを言うなんて、と驚愕しているようだ。
 違う。私はそんなことが言いたいんじゃない。
 必死に止めようとしても、私の口は勝手に言葉を紡ぐ。
「見ました、久藤君が別のクラスの女生徒に告白されているところ。あれが義理チョコのわけがないでしょう。分かってるんです。久藤君はとても優しい人です。こんな私の傍にいて下さるくらい優しい人です。そんな久藤君を私が独り占めしているのはおこがましいことです。きっと久藤君はこんな私にうんざりしているでしょう。ですからきっと、久藤君は、私より……」
 私より、あの女生徒を選ぶのでしょう。
 言いかけて、鼻の奥がツンと痛くなり、私はそれ以上言えなくなった。泣きそうだ。きっと今の私は情けない弱い顔をしているのだろう。その顔を見られないよう、私は俯いて唇を噛んだ。
「間違っていたらすみません。……先生は、僕を誰にもとられたくない、ということですか」
 久藤君の少し困ったような声色に対し、私はコクリと頷いた。
 きっと彼は呆れるだろう。そう思った矢先に、彼の溜め息が聞こえた。
「嘘を吐いたのは謝ります。でも、ボクもひとつだけ言わせて下さい」
 ほんの僅かだが低い声。久藤君らしくない。私が恐る恐る顔を上げると、彼の冷たい視線と交錯した。
「先生こそ、たくさんチョコレートを貰っていましたよね。ボクも、それを今の先生と同じ気持ちで見ていたと言ったら、どうします?」
「それは……っ!」
 「それは」、何だというのだろう。
 私は今すぐ彼の前から消えてしまいたくなった。
 確かにお返し目的や義理ばかりかもしれない。しかし、私がチョコレートを女生徒から貰ったというのは事実で、変わりがない。私はこんなにも受け取っておきながら、彼にそれをしないで欲しかったと願うとは、なんて身勝手なんだろう。
「――先生は、ボクのことをどう思っていますか?」
 自分の浅はかさを呪う私に、久藤君は唐突に言った。
 好きです、愛しています。考えるまでもないことだ。しかし、そんなたった数文字の言葉が言えない。私に出来たのは少女のように頬を染めて俯くことだけだった。
「……そうですか」
 それで分かってくれたのか、久藤君はにっこりと笑った。いや、違う。笑っているのに、笑っていない。いつもの久藤君とはまるで別人だ。
「じゃあ、先生。ボクが好きなら他人のチョコレートなんていりませんよね。捨ててもらえますか、ボクの目の前で」
 えっ?
 私は今し方聞いた言葉が信じられず、思わず聞き返した。久藤君は冷たい目のままにっこりと笑っている。聞き間違えたのではなさそうだ。
 確かに私は久藤君が好きだ。しかし、それを理由に生徒達の好意を無下にしていいものか。それに食べ物を粗末にするというのもいただけない。いつもの久藤君ならばこんなことは言い出さないはずだ。なのに、どうして。
「――冗談ですよ」
 余程私は面白い顔で悩んでいたのだろうか、久藤君がぷっと失笑した。その表情はいつも通りのもので、私は喜びと騙された怒りが綯い交ぜになる。
「騙したんですね。久藤君が私を騙すなんて、絶望しました」
「すみません、先生があまりにも人気があったので嫉妬してたんです」
 むくれる私に、久藤君が何でもなさそうに言った。彼が私の為に嫉妬するなど、有り得ない話だ。むしろそれは私の役目のはずだったのに。どうやら私達は同じ気持ちだったらしい。
「知ってましたよ、先生がチョコレートを断れずに受け取ってしまうことくらい。ですから、僕のもどうぞ断らずに受け取って下さい」
 そう言って久藤君が鞄から取り出したのは、綺麗なラッピングが施された包みだった。会話の流れから察するにチョコレートだろうか。思わず顔が弛んでしまう。
「は、はい。断るなんてとんでもないです、いただきます。……ありがとうございます」
 私は受け取った包みをぎゅっと抱いた。なんて幸せなんだろう。久藤君からチョコレートを貰えるなんて。
 私は決心した。勇気を振り絞り、私も彼を喜ばせよう。
「あの……久藤君」
「はい」
「後で宿直室に来て下さい。私も渡す物があるので」
「……もしかして、チョコレート……ですか?」
 私から貰えるとは思っていなかったのだろう。私がこくりと頷くと久藤君の顔がぱぁっと明るくなった。そんなに嬉しそうにされると、逆に困ってしまう。私は俯いてごにょごにょと付け足した。
「あの……一応倫や交にもアドバイスは貰ったんですが……味は保証しないので胃薬なんかを飲んでいただいた方がいいかもしれません」
「っ先生の手作りなんですか?」
 真っ赤になって頷くと、彼も同じように頬を染めた。夕日のせいで、それがより顕著になる。
 日直である彼と教室の戸締まりを確認することは何ら不自然ではない。私は運良く彼に日直が回ってきたことに感謝した。
「先生、あの」
「は、はい。なんでしょう」
 赤くなったまま並んで歩いていると、突然彼の真剣な眼差しが私を射抜いた。何をしようとしているかが分かり、私は口を開く間を与えずぎゅっと目を閉じた。キスをすることは滅多に無い。私が恥ずかしがるからだ。
「今日は特別ですよ!」
 半ばやけになって宣言する私に、彼は再び可笑しそうに笑った。私が素直に目を閉じるなんて、というふうだ。しかし私はなんだか胸がいっぱいで、今度はむくれる気も起きなかった。



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