・神ラスボス
・イーノックグリゴリ側へ寝返り



歩みを進める度に、風が私を拒む。
それにはかつて初めて此処に来た時に出迎えてくれたあの荘厳さは無い。
私を排除しようとする敵意だけを感じる。
それでも、私は進まなければならなかった。
腕で顔を庇い、脚を踏ん張り、ただ前へ。

「やあ」

不意に、声と共に風が止んだ。
腕を下ろして顔を上げれば、私の数メートル先に、未来の服飾を纏った男が立っていた。
私は唇を噛む。

「貴方も来たのか」
「ああ、もう他には誰もいないからね」

彼は肩を竦めて笑ってみせた。
私はちらりと来た道を振り返る。
彼以外の天使はもういない。
全て、私が斬ったからだ。

「いや、それはいい。
私は敵討ちをしに来たわけじゃない」

呆れた調子で、彼は腕を組んだ。
以前から彼はよく私に「甘い」と言っていた。
今のも、切り捨てた者のことを振り返るなど、という意味なのだろう。
コツ、と彼が距離を詰める音を聞き、私は彼の方へ向き直る。
彼は腕組みをしたまま、表情を少し険しくして口を開いた。

「――イーノック、お前は奴らの口車に乗せられてるとは思わないのか」

奴ら、とはグリゴリの――今回の事件の発端となった堕天使達のことだろう。
私は彼らを捕らえる為に地上へ向かったのだ。
そして、私は彼らから真実を聞かされた。
「神は必ず洪水を起こす」。
「神はその計画に反対する我々やお前のような邪魔者を消すつもりなのだ」と。
確かににわかには信じがたい話だった。
罠ではないかと疑いもした。
しかし、私は彼らを信じ、天界へと戻った。
神を倒し、洪水を止める為に。

「…………」

私は無言で首を横に振った。
ほう、と彼が関心を持つ。

「何故そう言い切れる?」

彼は茶化すように言った。
実際、彼にはそんなことはどうでもいいのだろう。
しかし私は努めて真剣に返した。

「……少なくとも、彼らは人間を愛するが故に堕天した。
貴方達よりは人間のことを想っているはずだ」

彼は私の言葉に、感嘆の声を上げた。
口元に手を当て、納得したように頷いている。
彼は一体何を考えているのだろう。
少し待ったが、彼は何も言わない。
私は痺れを切らし、率直に告げた。

「そこをどいてくれ。
さもないと貴方を斬る」

自分でも声が震えているのが分かった。
決意したはずなのに。
私は人間を守るのだ、と。
彼はそんな私を見て、愚かだと嘲るように笑った。

「お前が私を斬れると?
ただの人間が?」

傲慢だ、と私は叫んだ。
いや、傲りなどではない。
彼は実際に我々人間より優れた生物だった。
しかし、私はその天使達を倒して此処まで来たのだ。
不可能ではない。
手にしていた刃を広げ、構える。

「貴方とは戦いたくないんだ」

それは最終通告だった。
彼がノーと言えば、私は彼を斬らなければならない。
どうか首を縦に振ってくれ、と私は祈った。

「……そうだな。
私もお前とは戦いたくない。
話は聞かないし手のかかる奴だが、私が初めて対等に接してもいいと思えた人間だ。
簡単に言うと、私はお前が気に入っているんだよ。
他のアークエンジェルもきっとそうだっただろう」
「……っルシフェル!」

なら、と言いながら歩み寄ろうとして、私は足を止めた。
彼が至極切なげに、力の無い笑みを浮かべて首を横に振ったからだ。

「イーノック、私も戦いたくないんだ。
しかし、そうもいかない」
「何故だ」
「……神は絶対だからね」

私はギリッと歯噛みした。
何故だ。
何故神は人間だけでなく、天使までも苦しめるのか。

「どうして私が時を戻さないか分かるか?
何も知らない、人類の未来の為と信じて戦っていた頃に」

ふと彼は思い出したように言った。
言われてみれば確かにそうだ。
時間を戻せば、完全に記憶は消える。
覚えていたとしても断片的で、まるで白昼夢のようにしか感じない。
ならば私が反逆する前に時間を戻して記憶を消してしまえばいい。
私が記憶の断片に違和感を覚えても、それは反逆には繋がらないだろう。
彼は諦めたように笑った。

「……実はもう何度も戻したんだよ。
しかしお前は遅かれ早かれ、真実を知り、此処へ来てしまう。
これ以上戻しても意味が無い。
そう判断したからだ」

私は無意識のうちに彼を睨んでいた。
何度も私は此処までたどり着いていたのだ。
そして彼は何度も、私の邪魔をしたのだ。
そうとも知らずに巻き戻された世界で私は彼と笑っていたのだ。
何度繰り返されたか分からないそれを思うと、憤りが沸き上がってきた。

「以前言ったな。
最良の未来を思い自由に選択しろと。
その『未来』の為には、私を倒すしかない。
さあ、どうする?
それとも何も知らずに戦っていた頃に戻すか?」

慈悲深げな声で言いながら、彼がスッと手を伸ばす。
何をしようとしているのかが分かり、私は本能的に地面を蹴って走り出していた。
皮肉にも彼がくれた装備が私に力をくれる。
アーチを振り上げ、彼の胴を横殴りに斬りつける。
その直前、私は確かに彼の言葉を聞いた。

「イーノック。
私を、全てを、神から救ってくれ」

崩れ落ちる彼は、笑っていた。



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