「痛っ」

指先に走った痛みに驚いて、僕は手を引っ込めた。
僕が今まで摘んでいたライチの実が床に落ち、僅かに潰れるような音がする。

「どうした?」

ゼラが本を読む手を止めて僕を見た。
本の世界から現実に引き戻してしまったのが申し訳なくて、僕はぱっと下を向く。
本当は、ゼラが僕の声に反応してくれたのが嬉しくて、ちょっとニヤけちゃったからなんだけど。

「大丈夫。
ささくれが出来てて、ちょっと染みただけだよ」

ほら、と僕は手を振った。
右手の中指の爪の付け根に、ささくれがある。
もちろんゼラのいる離れた位置からこんな小さいものが見えるわけはないのだけれど。

「ああ……、ライチは果汁が多いからな」

ゼラの言う通りライチは美味しいけど、食べるには指をベタベタにしなくちゃいけない。
だけど僕は食べ終わった後に、ちょっと下品かもしれないけど、指に付いた果汁を舐めるのも悪くないと思っている。
美味しいし、勿体無いしね。
ただ、こういう時にはちょっと厄介だ。
僕はじんじんする手と、床に落ちたライチの実を交互に見た。
さすがに拾って食べる気はしない。
落下した実は潰れて、しかも転がった拍子にゴミまで付いてしまっていた。
もし今が落ちてから三秒以内でもきっと僕は食べなかったと思う。

「…………」

ゼラの育てたライチの実を、ひとつ無駄にしてしまった。
その事実は重い。
どんな理由であれ、僕はゼラに酷いことをした。
ゼラがここまでこのライチに注いだものを、すべて無駄にしたのだ。
踏みにじったのだ、ゼラの想いを。
それもこれも、みんなこの忌まわしいささくれのせい。

「……ねえゼラ、僕って親不孝?」

僕はもう一度、本の世界からゼラを連れ戻す。
顔を上げたゼラは突然投げかけられた質問の意味が分からない様子だった。
だから僕は、丁寧に言い直す。

「ささくれが出来るのは親不孝だからだって言うじゃない。
僕が親不孝だからこいつは現れて、僕の邪魔をしたのかな」

親。
「あの人たち」は僕に何を求めているんだろう。
どうして僕の邪魔をするのだろう。
きっと醜い醜い「あの人たち」は、僕が綺麗なゼラと幸せになることが許せないんだ、そうに違いない。

「親不孝か……そうだな」

ゼラは口元に手を当てて、パタンと本を閉じた。
本より僕の話に興味を持ってくれたんだと思うと、嬉しくってたまらない。
こういうことに一喜一憂するたびに、そんなにも僕はゼラが好きなんだって思い知る。

「親不孝かと言われれば、そうかもしれない」

ゼラはどう?
僕は聞き返す。
僕もだ、とゼラは頷いた。

「しかしそれが何だ?
ここに居る僕は『常川』ではない。
ここに居る限り、僕はゼラなのだ」

ゼラからすると「常川君」と「ゼラ」は違うらしい。
だからゼラには関係無いってことかな。
僕にはよく分からなかったけど、少なくとも「あの人たち」を醜いと罵る僕は親孝行だとは言わないと思う。

「きゃはっ、じゃあ僕もここに居る限りはジャイボなんだね」
「当たり前じゃないか、何を今更」

ここに居る間、僕はゼラと一緒なんだ。
ゼラの言うことの意味が理解出来なかったからそういうことで納得した。
ここに居る僕は「ゼラが大好きなジャイボ」でいられる、それでいいや。
なのに。

「……なら、どうして。
どうして『あの人たち』は僕の邪魔をするんだろ」

邪魔をするなら「雨谷」だけにして欲しい。
僕のことは、ほっといて欲しい。

「ねえゼラ。
僕はゼラが好き、大好き。
ゼラが好き過ぎて、死んじゃいたいくらい愛してる。
なのに『あの人たち』は僕の邪魔をするんだ。
僕が食べるライチの実ひとつでも、それがゼラの物だと分かった瞬間に邪魔をする。
僕にとっては、ゼラからもらったものは全部宝物なのに!」

言ってるうちにますます腹立たしく感じて、僕はささくれを指先で摘んで勢いよく引っ張った。
またそこに痛みが走り、細長い皮膚は完全に指から離れる。
じわりと血が滲んだけれど、僕は見て見ぬふりをした。

「僕はゼラが好きなんだ。
愛してるんだ。
なのに、なのに『あいつら』は……!」
「落ち着け、ジャイボ」

情けないことに、視界がじわりと滲んで見えた。
やば、僕泣きそう。
そんな僕の考えを察したみたいに、ゼラは僕の顔に手を伸ばしてきた。
ここで泣いたら、きっと惨めだ。
だから僕はぐっと泣くのを堪えた。
頭のいいゼラのことだから、僕が何を考えてるかはきっとお見通しなんだろう。

「血が出ている」

ゼラは見たまま口にして、僕の指にぷくりと現れた血をライチの果汁ごと舐め取った。
舌が傷口に触れるのが痛いような、くすぐったいような、変なかんじ。

「ゼラ……」

ゼラの唇が離れた後も、僕はポカンと指を見ていた。
僕の指、ゼラに舐められちゃった。
僕は思わずゼラから目をそらして、新しい実を剥きにかかった。
なんか恥ずかしい、いつもはもっと恥ずかしいことしてるのに。
それは平気でこれくらいのことが恥ずかしいってどうなんだろ。
雷蔵の乙女がうつったのかな。
僕がそんなことを考えてるうちに、ゼラはライチの実をひとつ、綺麗に剥き終わっていた。
ささくれなんか無くって、摘んでいるライチの実とおんなじくらい白くて綺麗な指。

「ほら」
「えっ?」

ゼラの指に見とれていた僕は、多分かなり変な声を出してしまったと思う。
だって突然ゼラが僕の口元にライチを持ってきたから。

「えーと……ゼラ、くれるの?
嬉しいなー、きゃはっ!」

わけがわからなくて、とりあえず僕は笑ってみた。
ゼラは対照的に呆れたような顔をしている。
「当たり前だ」って顔。
本当にくれるつもりだったみたい。

「染みるんだろう?
なら、痛い思いをして剥くことはないじゃないか」

ゼラは、僕が新しい実を手に取ったのは、僕がもうひとつ食べたいからだと思ったらしい。
そうだけど、そうじゃない。
ゼラはこういうところはちょっと鈍感だから分からないのかもしれない。

「……いらないのか?」
「ううん、食べるよ」

そう言ってから手が引っ込められる前に、僕は首を振ってゼラの手に自分の手を添えた。
そしてそのままゼラの指ごとライチの実を食べる。
さっきやられたみたいに、僕はゼラの指を舐めた。
ゼラは今度こそ手を引っ込めようとしたけど、僕が手を掴んでるから、それは出来ない。

「お返し」

きゃはっ。
僕が笑うと、ゼラはもう何も言わなかった。
何か言ったって止めるつもりはないし、ゼラもそれを分かってるから。

「続きもしてほしい?」
「好きにすればいい」

ほらね、思った通りだった。
僕は少し笑って、ゼラの首に腕を絡ませた。

「痛っ」

また指先が痛んでそっちを見ると、ささくれから血が出ていた。
あくまでも邪魔をするつもりらしい。

「ゼラ、好き」

僕は血の滲んだ指を、ゼラの唇に押し当てた。
「あの人たち」に邪魔はさせない。
だって僕は「あの人たち」を憎むよりもずっと強くゼラを愛してるんだから。



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