携帯電話に珍しい人から着信があった。

「先生……?」

先生はどうも機械が苦手らしく、電話もメールも滅多に来ない。
もっとも、毎日会うのだから別に電話する必要もないんだけど。
――なのに、その先生から突然の電話。
不思議だな、と思いながらボクは通話ボタンを押した。

「もしもし?」
『ああ、久藤君!久藤君ですか!?』

電話の向こうで叫んでいるらしい先生の声が耳に少しキーンときた。
先生は「よかった」とか「繋がった」とか、不思議なことをぶつぶつ言っている。
しかもその声は酷く狼狽している様子だ。
何かあったのだろうか。

「先生?どうかしたんですか?」
『それが、何も見えなくなってしまって……』

何も見えない?
先生は目が悪いようだけど、見えなくなるほど酷いものではないと思っていた。
もしかしたら、先生に何かあったのかもしれない。

「先生、今どこですか!?」
『え?それはもちろん家ですけど……』

ボクは先生が言い終わる前に、走り出していた。
まさか先生の身に何かあったのでは。
それを考えると、いてもたってもいられなくなったのだ。

「先生!すぐに行きますから、そこから動かないで下さい!」

携帯に向かってそう叫ぶと、電話の向こうから曖昧な返事が聞こえた。



「で、どうしてあんなややこしい言い方を……?」
「すみません、私もつい慌ててしまって……」

先生が申し訳なそうに俯く。
机の上に、壊れた眼鏡が乗っていた。
要するに、先生はうっかり眼鏡を壊してしまい、慌ててボクに慣れない電話をかけてきた……ということらしい。

「交君に頼んで別のを探してもらえばいいじゃないですか」
「あ、そう……ですね」

気付きませんでした、と先生が頭をかく。

「交や倫よりも、久藤君の顔が浮かんできたんです」

傍にいる人達よりも先に、わざわざ電話でボクを頼ることを思いついた。
それだけ先生はボクを頼りにしてくれているのだろうか。
そう思うと、なんだか急に嬉しくなった。

「すみません、ご迷惑をおかけしてしまって」
「いえ、いいんですよ。
先生に頼ってもらえて嬉しいんです、迷惑なんかじゃありません」

先生はもっとボクに甘えてくれていいんですよ。
そう言ってボクが笑うと、先生は恥ずかしそうに俯いた。
眼鏡が無いせいか、先生の顔がいつもより赤くなっているように見える。

「久藤君、その……」
「はい?」

あの、その、と先生はしばらく迷っていたみたいだ。
一体何を迷っているのかは分からないけど、ボクはじっと待った。
やがて先生は決心したように顔を上げ、突然ボクの手を握った。

「み……見えないんです、何も。
だから眼鏡を探す間、久藤君と……手を繋いでいたいんです……」

先生は恥ずかしすぎて許容量を越えたのか、最後は少し泣き出しそうな声で呟いた。
ボクも、まさかそんなことを言われるとは思わなかった。
先生は恥ずかしがり屋だから、こういうことを口にすることはあまり無い。
だから、嬉しさと緊張がごちゃごちゃになって、ボクまで赤くなってしまう。

「は……はい、もちろんですよ」

先生の眼鏡が無いことをいいことに、ボクは取り繕ってなんでも無いような声で答えた。
幸い、先生は気付いてないみたいで、眼鏡を探す為に立ち上がったところだった。



先生の眼鏡を無事に見つけ、少し他愛もない話をした帰り道、見知った子を見つけた。

「交君?」

交君は妙に怯えた顔をしている。
一体何があったのだろう。
少し気になったけれど、ボクは最初に「先生が眼鏡を壊して困っていたので、家に行って別の眼鏡を探す手助けをした」という話をした。
すると、交君はますます怯えたような顔をして、ボクの服を引っ張った。

「朝から……ノゾムがおかしいんだ……」
「先生が……?」

まさか、そんなことはない。
だってボクは先生に会って来たのだから。
さっき会った先生はいつも通りの先生だったはずだ。
だけど、交君が嘘を吐いているとは思えなかった。
ボクの服を握っている手は震えているし、顔も青くなっている。

「だって眼鏡はあいつが……!」

プルルルル。
交君が何かを言い掛けると同時に、携帯が鳴った。
ディスプレイに表示された文字は「糸色先生」。
交君は電話をじっと見たまま震えている。
何か言い忘れたことでもあったのかと、ボクは電話に出た。

「もしもし……?」
『ああ、久藤君!大変なんです!』

大変?
ボクは聞き返した。

『――が――――です』

先生の声はよく聞こえなかった。
電話の向こうから何か音がしていたからだ。
ガシャン、ガシャンとまるで何かを床に叩き付けるような音。

「先生?よく聞こえないんですが――」

ゴッ。
さっきまでとは違う、重い何かを床に落としたような音がして、雑音は止んだ。

『眼鏡がまた、壊れてしまったんです』

雑音の代わりに、今度は先生の穏やかな声がはっきりと聞こえた。
ボクの隣で交君がびくりと肩を震わせる。

『何も見えなくなってしまったんです。
何も、何も、何も……』

ボクの背中に、うっすらと冷たい汗が浮かんで来た。
今までに聞いたこともない程、先生の声は穏やかなのに。

『ねえ久藤君、会いに来て下さいますよね』

電話の向こうで、先生がにっこりと笑ったのが分かった。
ああ、駄目です、先生、それは……。

「は……い」

それでも、ボクは返事をしていた。
何故かボクの顔にも笑顔が浮かんでくる。
隣にいたはずの交君はいつの間にかいなくなっていた。

「もちろんですよ、先生……」

ボクの言葉を聞いて、電話の向こうで先生は微笑んでいるんだろう。
きっと、ひどく穏やかな気持ちで。
ボクは二言三言話して電話を切り、今来た道を引き返し始めた。



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