「先生は、よく『死にたい』と仰いますよね」

私を呼び出すなり彼女は、開口一番にそう言った。
セーラー服の裾とネクタイが強風に踊る。
彼女は留めていない方の前髪を押さえながら、にっこりと微笑んで立っていた。
夕日を背負って立つ姿はまるで映画のワンシーンのようだ。
逆光だというのに、弧を描く唇だけが不自然な程、鮮やかに私の目に映って離れない。

「何故ですか?」

目を大きく丸くして、彼女はまた私に問うた。
さてどう返答したものか、と私は腕を組む。
彼女の曲解に付き合っている暇は無い。
どうせどう答えても、彼女は自分に都合のいいように解釈するのだろう。
ならば、と私は考えることを止めた。

「何故って、死にたいからですよ。
文字通りこの世から消えたいからです」

教育者の言う言葉ではない。
他に人間がいれば私はそう咎められただろう。
しかし、この場にいるのは私と目の前にいる女生徒の二人だけだ。
そしてその生徒は、きょとんと首を傾げている。

「……そんなの嘘です。
先生は生きていたいんでしょう。
そうじゃなければ、今頃私の前にいないはずですよ」

ああ、また始まった。
私は聞こえないように呟いた。
彼女のポジティブシンキングには困ったものだ。
一人で勝手にやっていればいいのに、周りを巻き込むからたちが悪い。

「まるで早く死んで欲しいように聞こえますが」

苛立った私が言い返すと、彼女は顎に指を当てて、今度は逆の方向に首を傾げた。
そして困ったような笑顔で私を見ている。
彼女の私を見る目は純粋そのものだ。
それがこの生徒を苦手だと感じる理由の一つに違いない。

「いえ、まさか。
そんな酷いことを考えるわけないじゃないですか」

あはは、と彼女は笑った。
明るい笑顔だった。
それすら苛立つ自分が大人気ないという自覚はしている。
しているが、どうにもならないのだ。

「そんな酷いことは考えませんよ。
ただ、」

彼女は一度言葉を区切り、笑った。
私は何故かたじろぐ。
おそらく彼女の笑顔が、にっこり、の類いとは違い、不気味で可愛らしさを感じなかったからだろう。

「ただ、先生、死ねるチャンスは何度もあったのにどうしてだろうって思ったんです。
何度も何度も何度も何度も何度も何度も……
それだけチャンスがあって、全て逃がすなんて、おかしいですよね?
本当に死にたいならとっくに死んでますよ」

そう言いながら、彼女は私の方に歩いて来た。
私は一歩も動けない。

「そうですねえ、例えば、朝。
先生は電車に乗りますよね。
電車のタイミングに合わせてホームからぴょんっと跳ぶだけで死ねるんですよ?
そんな簡単に死ねるのに、死にたいはずの先生が生きているのはおかしいです。
車の通らない道は殆どありませんよね?
それも同じです、タイミングを合わせるだけ。
学校だって飛び降りれば死ねる高さです。
刃物だってハサミやカッターから包丁まで、なんでも揃っていますよ。
家庭科室には火もありますから、焼身自殺も可能ですね。
夏になるとプールがあります。
ちょっと工夫すれば簡単に溺れることが出来ますよ。
他にも、考えれば考えるほど思い付くと思います」

いつの間にか彼女は、息がかかりそうなほど近くに来ていた。
彼女の真っ黒な瞳に映っている私は怯えた顔をしている。
そんな私とは対照的に、彼女は活き活きとした表情だった。

「ほら、いくらでもチャンスはあるんですよ。
それをしないのは、先生が生きていたいからです。
まだこの世界にいたいからです。
絶望なんてしていません、先生は希望に満ち溢れています」

彼女はくるりとスカートを翻して私から離れ、後ろで手を組んだ。
この子は私を納得させたいのだろうか。
言い負かしたいようにも見える。
しかしそれが何故かは分からない。
どうして彼女は私を否定したいのだろうか。
いくら考えても分かりそうもなくて、私は首を横に振った。
もともと価値観がまったく違うのだ、分かり合えるはずもない。

「それでも、私は本当に『死にたい』んです。
たまたまチャンスの時にそう思わなかっただけで、今の私は『死にたい』んです。
もし次のチャンスの時に今と同じ気持ちなら、私は死んでいるでしょうね」
「本当に死にたい人なんてこの世にいません。
いたらとっくに死んでます。
だから死にたい人なんていないんですよ」
「死にたくて、自殺を図った人はどうなるんです。
即死でなければ完全に死ぬまでの間、その人は『死にたい人』でしょう。
あなたの言っていることは無茶苦茶です」

彼女の口調に苛立った私は、強い口調で反論した。
言ってから冷静になってみると、無茶苦茶なのは私の方だった。
子供相手に何をムキになっているのだろう。

「……ああっ!
そうですね、確かにその通りです」

そんな私の思いとは裏腹に、彼女は納得した様子を見せた。
それどころか日本語って難しいですねーなどと笑い始める始末だ。
私は少し呆れて、「話がそれで終わりならもう行きますよ」と断ってから歩き出した。
一刻も早く彼女から離れたかったからだ。
彼女はまだ何か喚いていたが、私は適当に返事をしながら歩き続ける。

「じゃあ先生、私がチャンスをあげます。
先生は本当に『死にたい』んですか?」
「……え?」

それがまずかったのだろうか。
彼女の言葉を聞いていなかった私は思わず「はい」と答えてしまったのだ。
次の瞬間、背中に痛みが走った。
腹部からは銀色の刃が飛び出している。
後ろから彼女に刺されたのだ、と気付いたのは転倒した後だった。

「な、ん……」
「よかった、先生、今回はチャンスを掴めましたね」

生暖かい液体の溢れる腹部を押さえながら見上げると、彼女はやはり笑っていた。
私の血が付いた刃物を持ったまま、にっこりと。



「先生、起きて下さい」

声に反応して身体を起こすと、生徒達がぐるりと私を取り囲んでいた。
どうやら机に突っ伏して眠ってしまっていたようだ。

「先生、自習でも授業は授業です。
きっちりして下さい」
「は、はい、すみません……」

腕を組んで一際怒りのオーラを噴出する生徒に謝りながら、私は心の中で感謝した。
彼女が起こしてくれなければ悪夢はいつまで続いたか分からない。

「先生も疲れてるんですよね」

ほっと溜め息を吐いた瞬間に斜め後ろから話し掛けられ、私は大袈裟なくらい驚きながら振り向いた。
先程、夢の中で私を刺した張本人だ。
夢だと分かってはいるが、妙に警戒してしまう。
しかし私の様子など気にも留めずに、彼女はにこにこ笑っている。
いつもこうだとはいえ、何故私が夢の中でまで振り回されなければならないのだろうか。

「ね、先生」
「はい……そうかもしれませんね」

私は苦笑し、妙にクラクラする頭を押さえた。
やはり疲れているのだろう。
今は仕事だ、と首を振ってそれを振り払う。
そのおかげか伝えなければならない連絡事項を思い出し、私は生徒達に席に座るよう指示した。
そして短くなったチョークを持ち、黒板に連絡事項を書き連ねる。

「えー、今度の月曜日ですが――」
『先生、どうですか?
まだ死にたいですか?』

黒板に向かったまま説明をする私の耳元で誰かがそう囁いた。
誰か?
決まっている、彼女だ。
私は反射的に振り向く。
しかしそこに立っている人間などおらず、生徒達は皆黒板に書かれた文字を写していた。

『まだ死にたいですか?』

ふと、彼女と目が合う。
彼女はにっこりと微笑んで私を見ているだけだった。
何も言わず、あの活き活きとした笑顔で。
彼女の真っ黒な瞳には、相変わらず怯えた顔の私が映っているようだった。



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