俺の目の前に、窓を挟んで巨人の青い腕があった。
何故、こんなところに?
少し考えた後ようやく「ああ、これは死ぬかもしれない」なんて今の状況を理解した。
迫る巨大な腕がスローモーションのようにゆっくりと見える。
足は動かない。
根が生えたように立ち尽くしたまま、俺は迫るそれを呆然と見ていることしか出来なかった。
「キョンくん!」
ぽかんと口を開けて固まっていた俺の腕を古泉が思い切り引いた。
必然的に俺の足はそこから離れ、いつの間に戻って来たんだろうなどと考えながら古泉に手を引かれ、部室に逃げ込んだ。
椅子に座り初めてあのままあそこで立っていたら、と寒気がした。
「キョンくん……大丈夫でしたか……!?」
古泉が息を荒げながら心配そうな表情を浮かべる。
この状態でなんともない、と冷静に答えることなど出来るものか。
身体が震える。……我ながら情けない。
そんな俺に気付いたのか、古泉は俺の背中に手を回し、あやす様にぽんぽんと背中を叩いてくれた。
「大丈夫です、落ち着いて下さい」
「古泉……」
「……すみません」
何故古泉が謝る必要があるんだ?
俺がぱっと顔を上げると古泉は悲しそうな笑顔を浮かべていた。
「すみません、僕が神人をくい止め切れなかったせいで」
「そんなこと……わざわざ謝らなくていい。
お前の言う通りすぐに逃げなかった俺が悪いんだ」
古泉はそれを聞いて苦笑した後、すぐに真剣な顔をして少し扉を開け、外の様子を窺った。
だが、神人は執拗に窓からこちらを覗いている。
どうやら狙いは俺らしい。
何故俺を狙うのかは分からないが、とにかく俺を狙っている。
古泉もそれに気付いたらしく、珍しく苛立った表情を浮かべていた。
しかしこんなところにいて大丈夫なのか?
いつあの腕が飛んでくるとも知れないのに。
「涼宮さんはこの場所を気に入ってるようですから。
周囲がどれだけ破壊されてもここは無傷なようですし」
なるほど、そんな都合のいいことまで出来るのか。
「ですから、あなたはここにいて下さい。
世界が崩壊しない限りは安全でしょう」
「古泉はどうするんだ……?」
「僕は神人を倒しに行きます」
「ま、待てって!」
踵を返し、部屋の外に出ようとした古泉の腕を慌てて掴む。
すると何故か古泉の表情が少し歪んだ。
「古泉……?お前、怪我してるんじゃないのか……!?」
「なんともありませんよ、これくらい。日常茶飯事ですから」
日常茶飯事だから怪我をしていいわけじゃないだろう。
何を考えてるんだ、こいつは!
俺は部室内を引っかきまわし、救急箱をなんとか探し出した。
朝比奈さんあたりが置いてってくれたんだろうな。
さて、救急箱を出したまではいいんだが……手当てなんてしたことないぞ。
「えーと……こ、こんな感じか?」
怪我をしている左腕としばらくにらめっこをした後、とりあえず消毒をし、
ガーゼを当てて包帯を巻いてはみたんだが、どうもうまくいかない。
そんな不恰好な手当てに対して「ありがとうございます」なんてにっこり笑って礼を言われるとちょっと困るぞ。
「では、僕はそろそろ行かなければ」
不意に古泉が立ち上がる。
あんな怪我をしてまでまだ行くつもりなのか。
「怖く、ないのか?
あんなやつ相手に一人で立ち向かうなんて……」
「もちろん、怖いに決まってるじゃないですか」
古泉はそう言ってクスクス笑った。
「でも、それよりも……」
「それよりも?」
俺が聞き返すと、「あ」と声を洩らして古泉は黙ってしまった。
そこまで言って黙られると逆に気になるんだが。
しばらく粘った末、古泉は苦笑しながら「笑わないで下さいね」と念押しして、口を開いた。
「……世界が改変され、あなたに会えなくなったり、あなたが僕を忘れたり……
もしくは世界が崩壊してあなたが消えてしまう事の方がもっと怖いんですよ」
「……俺?」
ちょっと待て、何故そこで俺なんだ。
そう言うと古泉はまるで俺がそう言うのを分かっていたかのようにくすっと笑った。
「本当に笑わないで下さいね?」
「笑うも何もまったく意味が分からないんだが」
「……そうでしょうね」
また少しおかしそうに笑った後、古泉は真剣な顔でこう言った。
「僕は、あなたを守りたいんです」
言葉の意図が分からず、ぽかんと口を開けているとまた古泉が笑った。
それも超がつくほど至近距離で。
「お、おい。ばか。近い」
あまりにも予想外だったせいか、思わず声が裏返った。情けない……。
「まだ分かりませんか?」
「何がだ……」
「では」
古泉が俺の顎に手を添え、ぐい、と上を向かせた。
ちょっと待て。
なんだ、これはまさか……
「ちょっと待て古泉!どういうつもりだ!?」
抵抗しようとした手は空いていたもう一方の手で抑えられ、俺は抵抗する術を失った。
仕方なくなんとか説得を試みるものの、古泉は眉一つ動かさない。
「古泉っ!」
無意識に顔が熱くなってしまう。
いいからさっさと離れてくれ、とそう思った瞬間。
「……〜っ!?」
古泉の、唇が、俺の、唇に……っておい!
ちょっと待て!
なんだこの状況は!
……落ち着け、落ち着いて状況を整理するんだ。
今俺は古泉と閉鎖空間で神人が襲って来てSOS団部室で何故かキスしてて……
駄目だ落ち着けるわけねぇ!
「ぷはっ……!お前……!」
「……すみません」
漸く離れた古泉はいつもの笑顔で平然とそう言った。
心から謝罪する気は無いらしい。
「でもこれで、分かっていただけました?」
そう言って今度は頬にまた唇を落とす古泉。
「分かるわけないだろう……!」
顔から火が出そうっていうのはこのことなんだろうな。
俺は自分の顔が真っ赤に染まっているのが分かった。
分かるわけない、と言ったものの俺は結論に既にたどり着いていた。
これ以外にあり得ない結論だ。
「さっき言った僕の『好きな人』が、あなただからですよ」
ああ、やっぱり。
「俺は男だぞ……!?」
「そんなことはどうだっていい。
仕方ないでしょう?僕はあなたを好きになってしまったんですから」
古泉は俺の頬に手を添え、どんな女でも一撃必殺だろうスマイルを浮かべた。
……不覚にも男の俺までどきっとしてしまった。
「……さて、そろそろ僕は行きます」
「……ちょっと待て古泉……!」
俺は扉を開こうとする古泉の服を掴み、慌てて引き止めた。
何かを言うつもりだったのに、何を言えばいいか分からず言葉が出て来ない。
「あー……その、なんだ……」
俺が何かを言う前に、古泉はにこりと笑って
「キョンくん、愛しています」
なんて恥ずかしいことを言って、俺が言葉を返す前に部室を出て行ってしまった。
もしかすると、俺が拒絶するのを聞きたくなかったのかもしれない。
どちらにしろ、俺は暗い部室に一人取り残されてしまった。
後はこの場所が元に戻るのを待つことしか出来ない。
いっそ俺も超能力が使えれば古泉一人に負担をかけなかったのに、などという考えが浮かび、思わず自嘲の笑みが零れる。
そしてため息を吐いたと同時に外から古泉の声が聞こえた気がした。
「古泉……?」
もしかすると、無事に神人を倒したのかもしれないな。
そう思い、扉に手をかけたのだが――
「開かない……?」
どんなにやっても、扉は開かなかった。
フラッシュバックする古泉の言葉。
『周囲がどれだけ破壊されてもここは無傷なようですし』。
……まさか、外は、古泉は……。
何をしても開かない扉がさらに不安を増長する。
どうして開かないんだ。開けよ。開けよ!
もしもあいつの言った通りここ以外の場所がすでに破壊され、閉鎖空間に飲み込まれていたとしたら……!?
俺はどうなるんだ?空間の外の元の世界に帰ることが出来るのか、あるいは新しい世界に送られるのか。
いや、俺はいい。
古泉はどうなるんだ?古泉はどうなったんだ?
「まさか……」
もう、帰って来ないのか……?
「――古泉っ!」
俺は扉を必死で叩いた。
何度も何度も。
「古泉!いるんだろ!?
外はどうなってるんだ!?ここを開けろ!」
どんなに大声で叫んでも返事は無い。
「古泉ーっ!」
それからしばらくの間、扉を叩き続けたが物音一つ返って来なかった。
俺はじんじんする手をぐっと握り、その場にへたり込んだ。
何やってるんだ、帰って来いよ……古泉。
勝手なことだけ言って消えるなんて卑怯だぞ。
「……返事も聞かないで……」
ああ、もしかして。
きっと本当は俺もお前のことが――……