「ふいー!涼しー!!」

そう叫んだ田島が睨まれている。
無理も無い。
ここは図書館だってのに、いきなりその態度なら追い出されたって文句は言えないかもしれない。

「こら、真面目に探せよ。
読書感想文書いてねーの、野球部でお前らだけなんだからよ」

読書感想文。
宿題は正直写せばなんとかなっても、これだけはそうもいかない。
なんとか本を読んで、なんとか原稿用紙に文章を書かなきゃならない。
じっと座って本を読んだり文章を書いたりなんて、三橋と田島にとっちゃ地獄なんだろうな。
ちなみに花井もオレもとっくに終わってしまっている。
もちろん小説なんて読む気が起きなくて、プロ野球選手の自伝にしたんだけど。
幸運にも今日の練習は昼までだったので、二人の感想文の為にオレ達は滅多に行かない図書館へ足を運ぶことになったってわけだ。

「オレマンガ読もっと!」
「マンガは感想文書いてからにしろ!」

マンガのコーナーへ一目散に走っていく田島を追いかける花井。
図書館でドタバタするのはどうかと思う。
まあ、田島じゃ何言っても無駄か。

「野球コーナーの本でも読んでろ!イチローとか!」
「えーやだー!オレマンガ読みたいー」

花井が田島をズルズル引っ張って野球の本のコーナーへ入って行った。
こんなことなら泉も連れて来るんだった。
あいつがいれば花井が一人でこんな苦労しなくてすんだだろうし。

「で、三橋はどーすんだよ」
「お、オレ……?」

三橋は急に話しかけられたせいか大げさな程驚いている。
そうだ、こいつちゃんと言わないと通じないんだった。

「三橋は、何読むか決めたのかよ」

今度はちゃんと丁寧に言い直す。
通じたらしく、三橋は胸のあたりで手をぎゅっと握って頷いた。
なんとなく子供が親に何かを真剣に説明してるみたいに見えて、何だかおかしい。

「オレ、テレビで見た、やつにする!」

テレビで見た?
どういう意味だ?
今やってるドラマの原作とか?
それか、何かの紹介で見たのか?
オレが頭を捻っていると、三橋はすぐにその本を持って戻って来た。
有名なのか新刊かで目につくところにあったのかもしれない。

「これ」

三橋が控えめに、でも笑ってその本を掲げた。
それを見て、オレは思わず三橋の手からその本を取り上げてまじまじと見てしまった。

『The Catcher in the Rye』

飾り気のない白い表紙に赤い文字でそのタイトルが大きく書かれていた。
その内容と、タイトルをなんと訳すのかはオレでも知ってる。
小さく載っている翻訳者の名前はこれまたオレでも知ってるような有名な名前だった。

「あべ、くん?」

三橋はオレの行動に驚いたのか、おそるおそるといった様子でオレの名前を呼んだ。
こんな内容の本を、三橋に読ますわけにはいかない。
そもそも、感想文に書かせるわけにもいかない。

「ふっ……」

ふざけんな。
そう怒鳴ろうとして、ここが図書館だったのを思い出した。
落ち着け。
見たところ、三橋は内容なんかこれっぽっちも知らないみたいだし。
よし、落ち着け、オレ。
何度か深呼吸して、オレは三橋に言った。

「……お前、ほんとにこれ読むつもりだったのか?」
「う?」

三橋はこくん、と頷いている。

「内容知っててか?」
「知ら、ない」

……やっぱり、知らないのか。
ってことはテレビの何かの紹介でちらっとタイトルだけ聞いたんだろうな。
この内容は三橋にはちょっと刺激が強すぎる気がする。
というか正反対な三橋には理解出来そうもないと思う。

「三橋、あっちで田島と一緒に探して来い」
「でも、」
「いいから、これはお前の分までオレが読んどいてやるよ」

後で感想教えてやるから。
そう言うと三橋はしぶしぶという態度で田島のところへ行った。
花井が苦労しそうでちょっと悪いとは思ったけどさ。



キャッチャー イン ザ ライ。
ライ麦畑でつかまえて。
どうして三橋はこんなものを読もうと考えたんだろう。
オレは適当に近い椅子に座ってそれを読み始めた。
物語は主人公のホールデンが高校を退学になるところから始まる。
高校の寮に住んでいたホールデンはそれが親に知られるまでニューヨークで時間を潰すことにした。
クリスマスが近いせいか賑わうニューヨーク。
ホールデンはそこでいろいろな人に出会いながら家に帰り、こっそり妹のフィービーと一緒に出かけた。
そういった一連の出来事を「君」という人物に語っている……という内容だった。
駄目だ。こんなもん三橋に読ませられない。
いろいろと刺激が強すぎる。
世の中のすべてのものがインチキに見える、なんて。
三橋が見たら目を丸くして首を傾げるに違いない。
世の中には不条理なことばかりで、大人達はみんなインチキな奴らばっかりだ。
それが主人公の言い分なんだろう。
三橋はそんなこと考えたこともないんだろうな。

『せま苦しい部屋の中、いつも考えていた。
奴らか僕かがいなくならなければ……そうだ、そうだ。そうだ!』

――あれ?

何かがひっかかった。
もしかして、とふと思った。

――三橋と、この主人公は似てるかもしれない。

もちろん性格は正反対だ。
三橋はホールデンみたいに自分の考えを正しいと信じて堂々と人に言ったりはしない。
だけど、どこか境遇が似てるかもしれない。
大人のヒイキで……インチキでレギュラーにされた三橋。
チームメイトか、自分か、どちらかがいなくならなければ解決しない状況。
三橋はそこで自分がいなくなるのを選んだんだ。
そうやって考えると、三橋の中学時代はホールデンと同じくインチキで不条理なものだったのかもしれない。
ただ三橋がそれを自覚していなかっただけで。
下手すりゃ三橋もこの主人公になってたかもしれないんだ。
そう考えて、なんだかため息が出た。
よかったのか、悪かったのか。
そんなことはオレにはわからねーけどさ。



「阿部く、ん」

オレが本を読み終えて一息ついていると三橋が戻ってきた。
読む本はちゃんと決まったらしい。
野球の本を胸に抱いてヘラヘラ笑う三橋を見てるとなんだか悲しくなってきた。
まあ、オレがヘンにさっきの本で感情移入したせいだけどさ。

「三橋、なんであの本読もうと思ったんだ?」

オレはふと気になったので、自分の沈んだ気分を浮上させるためにも、そう聞いてみた。
三橋がまた大げさに反応した。
ヘンなこと聞いたか?

「あ、あの、えと、あの」

落ち着き無く周りを見回す三橋。
そんなにキョドるようなことか?
大量にある本から何故あれを選んだのかって聞いただけでさ。

「本の、な、まえ」
「名前?……ああ、キャッチャーインザライ?」

三橋が頷いた。
でも続きを言う気配はない。
手に持った本の角をいじっている。
ここは図書館だ、我慢しろオレ。

「きっ……」
「き?」

オレが聞き返すと三橋が真っ赤になった。
意味がわかんねぇ。

「キャッチャー、の、ほん……だと、あの……」

…………。
キャッチャーの何だって?
キャッチャーの本?

「三橋、もしかして」
「う、ひ」

タイトルにキャッチャーって付いてるからって、まさか。

「キャッチャーの本だと思った……のか?」

三橋が頷いた。
やれやれ、まいったね。ホールデンならそう言うだろうか。

「このキャッチャーっていうのは野球の捕手のことじゃなくて、主人公の夢のことなんだよ」
「夢……?」

こればっかりは読まないと理解出来ないのが難しいところだ。

「プロ野球選手?」
「だから、野球の捕手のことじゃなくて……」

ホールデンが妹フィービーに語った夢はライ麦畑のキャッチャーになることだった。
もともとは歌の歌詞を間違えて覚え、それがいいなと思ったのがきっかけらしい。
広いライ麦畑で子供達が遊んでいる。
その畑の先には崖があるが、子供達は見えていない。
ホールデンはその崖っぷちに立って、前を見ずに走ってきて落ちそうになっている子供を見つけてはさっと捕まえてやる。
そんな風にライ麦畑で子供を捕まえ助けてやるキャッチャーになりたい、それが主人公の言うキャッチャーだ。
それを出来るだけわかりやすくオレは三橋に説明してやった。

「子供を助ける、ひと」
「まあ多分そんなもんだな」

文章を削りに削ってようやく三橋は理解した。
きちんと伝わったかどうかは分からない。
さてと、三橋の本も見つかったしそろそろ花井達にこれからの予定を相談しに行くか。
そう思ってオレが立ち上がった時だった。

「阿部くんみたいだ」

三橋がそんなことを言って笑ったのは。
あっけにとられているオレに三橋は続けた。

「オレを、キャッチしてくれるのは、阿部くん、だ」

通じてなかったのか?さっきの話。

「だから野球の話じゃなくて、」
「オレの球、捕ってくれるのも阿部く、だし、
高校に入ったばっかりの、崖っぷちだったオレを助けてくれたのも……阿部くん、だよっ!」

一生懸命に三橋はそう言いきって、はぁと息を吐いた。
オレが三橋を助けた?
……そうか、そうだった。
西浦に来たばっかの三橋はまだ中学の時のままで、すごいギリギリだったんだ。
今度こそちゃんと野球をやれるかどうかって、ギリギリのところに立ってたんだ。
それで、オレが捕手やって、バッテリーになったんだ。
もしかして三橋は、今までずっとそんなこと考えてたのか?
なんてこった。

「んなことねーよ」
「ある、よ!」

ねーんだよ。バカ。

「高校入って崖っぷちだったのはオレも同じだろ」

今度はちゃんと捕手としてやっていけるんだろうか、とか。
ちゃんとしたバッテリー組めるんだろうか、とか。
高校入るまでそんなこと考えてたし。

「お前はお前でオレのこと助けてるんだから、お互い様だろ」

そう言うと、三橋は俯いた。

「オレ、そんなこと、してない」
「してるよ。実際オレのサイン通りに投げてるし」

前はサインなんかあっても無意味で、狙い通りの球が飛んでくるのがどれだけ嬉しいかこいつは知らない。
それが楽しくてオレは捕手やってんだからさ。

「自覚ねーんならそれでいいんだよ。オレもそんなこと思ってないし」

お互い知らないうちに助け合ってんだから、お互い様だ。
それでいいだろ、別に。
バッテリーって多分そういうもんなんだろうし。

「ほら、花井と田島探すぞ」

さっさと本を戻そうとオレは歩き出した。
本棚を探していると、三橋がまだ後ろでボソボソ何か言ってる。
しつこいやつだな、それでも納得できねーのかよ。
そう思って振り向くと、

「で、も……ありがとう、あべく……」

ふひ、と三橋が笑った。
こいつにしては珍しい、滅多に見られないような笑顔だった。
やれやれ、これにはまいったね。
オレはもう一度ホールデンになってから、三橋の頭を照れ隠しにぐしゃぐしゃと撫でた。



Back Home