戦争も飢餓も貧困も、全てがもうここには無い。
ああ、なんて美しい世界なんだろう。

(なのに、どこか穴が開いているように感じるのは何故だ?)



doughnut



ゼロとして任務に忙殺される日々。
ナナリーと半分に分けたって、忙しくてたまらない。
すっかりナナリーも疲れているようで、僕は休憩にしようと一声かけた。
彼女は、僕の正体を問わない。
仮面のままの僕でいさせてくれる。
正体がバレてるのか、そうじゃないのかは、知らない。

「ゼロさん、今日は美味しいドーナツを頂いたんです。
おひとついかがですか?」

そう言ってナナリーが微笑む。
目が見えるようになってからの彼女はとても生き生きとしていて、行動的だ。
努力次第ではいつか歩けるようになる日が来るかもしれない。

「ああ、頂くよ」

僕には似合わない、えらそうな喋り方。
だけど、少しくらい威厳がなくっちゃ、国を治めるなんて到底出来っこないだろう。
ナナリーはとっくに慣れた様子で手際よく紅茶を用意してくれる。
目が見えなかった頃に出来なかった分、今は自分でなんでもやりたいみたいだ。

「ドーナツ、か」

穴があるから、ドーナツ。
穴が開いてなかったら、……なんていうんだろう?
ただの揚げパン?
ドーナツがドーナツである為の、ぽっかり開いた穴。

(まるで僕の世界みたいだ)

今の僕の世界は、どこかから風が吹き込んで来る。
どうして?何かが欠けている?
穴を塞ぐ鍵は?

ル・ル・ー……。

(――駄目だ!!)

何かが叫んでいた。
思い出してはいけない、と。

「ゼロさん?」

背中を冷たい汗が伝う。
しろいふくの、こうてい。
思い出してはいけない、その姿。

(思いだすと、僕が僕ではなくなってしまう!)

穴が開いていなければならない。
風が吹いていなければならない。
思い出しては、いけない。

(ぼくのこころはいちどこわれてしんだのだから。
あのときかれといっしょにくるってしんだのだから。
てにもっていたそのつるぎでのどをかっきりたいしょうどうをどうにかおさえておろしたものの
つるぎではないなにかがかくじつにぼくののどをひきさいた。
つるぎではないそれはそのままどうをわってぼくをまっぷたつにしたのだ。
そしてぼくはしんだのだから。
しんだのだから。
しんだのだから……)

「ゼロさん?」
「え?」

気がつくと、ナナリーが心配そうに僕の手に自分の手を重ねていた。

「気分が悪いようですけど……」

気分が悪い。
どうして。

「……いや、なんともない。続けようか」

僕はそう言って、再び書類に目をやった。
あわただしい作業がまた始まる。

(あれ?)

さっきまで僕は何を考えていたのだろう。
忘れてしまった。

(――まあいいか)

忘れる、ということは大したことじゃなかったんだろう。
早くこの仕事を終わらせなければ。

(おかしいな)

僕の心の中を、冷たい風が吹き抜けていく。
まるでなにか大切なものがぽっかりなくなってしまったみたいに。

(そんなわけないよ。
僕に幼馴染のナナリー以上に大切なものなんてないんだから)

幼馴染の、ナナリー。
もう一人、いなかった?

(……忘れた)

僕は頭を振って雑念を振り払い、作業に戻った。
ドーナツに似た僕の心に、膨大な量の書類のみがしみ込んでいった。



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