今年の桜は随分長いこと咲いていた。
特に「あの桜」は本当に長い間、美しく咲き続けていた。
でも、そんな「あの桜」も昨日の雨には勝てなかったらしい。
ほとんどが昨日のうちに散ってしまったらしく、地面には桜の花弁がまるで絨毯のように広がっていた。
どれもこれも、雨と土に濡れている。
一昨日まではあんなに美しかったのに今は薄汚れて見る影も無い。
それがあまりにも可笑しかったので、僕はそんな泥まみれの花弁を踏みにじり、笑ったのだった。



AAB



「桜の下には死体が埋まっている」。
最初にそんなことを言ったのが誰なのかは知らない。
花見なんかをしないタイプの人なんだろう、という推測はしたけど。
おそらく「桜を見るのがそんなに楽しいのか?」って考えの人なんだろう。
普段は花なんて興味も無いくせに、桜が咲いた途端に大喜びするのは、言われてみれば確かに不気味だ。

「やあ」

僕は花弁の道を歩き、「その桜」に近付いた。
だいぶ散ってしまったけれど、他の樹に比べるとまだ咲いている方だ。
いや、色のせいでそう見えるのかもしれない。
「あの桜」は何故か周りの桜よりも、濃い紅色をしている。
桜色、というよりも紫に近い、淡い紅紫色。
そのせいで、余計に際立って見えるのかもしれない。

「久しぶりだね」

手近なところに咲いていた一輪を、「その桜」からプチンと摘んだ。
本当に美しい、見事な桜だ。
僕はそれをぐしゃりと握りつぶす。
手を開くと、薄紫の花弁が地面に落ちて新たに絨毯の一部になった。
まるで何かを隠すように広がる花弁の絨毯。
僕は爪先で花弁を蹴り散らした。
靴に泥が付いたけれど、そんなことは気にしない。
一歩前に踏み出すと、湿った土がぐにゃりとへこみ、足の形がくっきり残った。

「まだ咲いてるなんて思わなかった」

僕は幹に手を付き、桜に語り掛けた。
ほんのりと温かさを感じる、気がする。

「とっくに散ったと思ったのに」

僕は心底残念な気持ちで言った。
本当は花がすべて散ってから来ようと思っていたからだ。
だが、「この桜」はなかなか散る気配が無かった。
そして雨が降ったにもかかわらず、まだ美しい花が僅かに残っている。
僕は、「この桜」の花が嫌いだった。
「この桜」の花は、ひとつ残らず僕を睨む。
それが本当に嫌でたまらなかった。

「栄養がいいからかな?
ねぇ、君もそう思う?」

地面を踏みならすと、ぐちゃぐちゃと濡れた土の音がした。
足跡のすぐ傍には「この桜」の根が見える。
こんなところまで根があるのか。
僕は地面からはみ出した根に爪先で泥をかけた。
しばらくの間、僕はそれを続けたけれど、馬鹿らしくなってやめた。
「桜」は何も言わない。
僕を睨んでいるだけだ。

「……あれ?」

その花をむしり取ってやろうかと思い、手を伸ばした僕の目に、鮮やかな赤色が飛び込んできた。
薄紫の花弁の影に隠れて、赤い実がぽつんとひとつだけ生っている。
「この桜」が実をつけたのは、初めてのことだ。
へえ、と僕は改めて手を伸ばした。
その刹那、強い風が吹き、「桜」が僕の方を向く。
今までよりも強く強く僕を睨むかのように。
構わず僕は実をむしり取った。
そして小さなその実を、手のひらで転がしてみる。
見れば見るほど鮮やかな赤色だ。
ああ、何かに似てると思ったら、君の唇と同じ色だ。
懐かしさを感じながら口に放り込み、飴を舐めるように舌で転がす。
いよいよ歯をたてると、実の味が口内に広がった。

「――っ!?」

僕は思わず吐き出しそうになり、慌てて口を押さえた。
熟す前のような、腐乱してしまったような、おかしな味のせいだ。
「あの桜」と同じく、この実も僕を拒絶しているらしい。
そんなに僕が嫌いなのか、と笑みさえ浮かぶほどだ。
それでも、それでも僕は、君が好きなんだよ。
覚悟を決め、僕は実を嚥下した。
もう味も分からない。
舌が麻痺しているようだ。

「僕はこんなに君が好きなのに」

君はきっと、僕が憎くてたまらないのだろう。
だから、こうして僕を睨み、拒絶している。

「……ごめん、ごめんね」

僕は汚れるのも構わず、泥の上に膝をついた。
そっと泥を撫でても、それは凍りそうなほど冷たい。
もう、ここにはいないのだと、そう言っているかのようだ。
僕は顔を上げた。
まるで見下すように、「桜」が僕を睨んでいる。
僕は「桜」の根に拳を振り下ろした。
ここにいた筈の君は、「桜」になって僕を睨み続けている。
だから僕は、君を奪った「桜」を憎むのだ。
ああ、憎い憎い「この桜」。
――でも今は君が「この桜」なのだから、とどのつまり僕は君が憎いということなのだろうか?
根を殴る途中、そんなことが頭をよぎったけれど、すぐにどうでもよくなった。
僕は君が好きで、君は僕が嫌い。
それが真実で、事実で、考えみればたったそれだけのことだったのだ。



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