カチャカチャ、とキッキンから絶え間なく音が響いている。何かをかき混ぜているようだ。ふわりと別の何かが焼ける香りもする。
 先ほど訪れた部屋に主がいなかったことを考えると、おそらくこの音の正体はお目当ての人物の物と見て間違いないだろう。侵入者はこくりと頷き、歩みを進めた。カチャカチャ。音は続いている。どうやら招かれざる客が現れたことには気付いていないらしい。
 いける、と侵入者は確信した。
 そして次の瞬間、彼は目の前で揺れているエプロンへと手を伸ばした。
「だーれだっ!」
「ほわぁっ!?」
 ばっしゃーん!
 やはり最後の最後まで侵入者の存在を感知出来ていなかったらしい哀れな子羊は、手にしていたボールを派手に落とした。





「ごめん! ごめんってばルルーシュ!」
 頭を下げながら必死で縋りついてくる侵入者を少年――ルルーシュが呆れたような顔で見つめている。しかしそれは無理もないことである。
 何故なら彼の身体はさっき落としたボールの中身でべとべとになっているからだ。いくら普段は冷静な彼でも、突然背後から抱き締められては驚いてボールを取り落とすくらいのことはするだろう。
 ああ、今すぐ服を脱いで、ついでに身体を洗いに行きたい。
 ルルーシュは不快感から眉を寄せた。
 ところが、鬱陶しいくらいにまとわり付いてくる侵入者のせいで、それはなかなか叶わないようだ。
「分かったから放せ、スザク! 俺は今すぐ風呂に入りたい!」
 侵入者ことスザクを無理矢理引き剥がし、ルルーシュはべとべとのエプロンを脱ぎ始める。床には殆どこぼれず、自分や服だけに付いてしまったのは幸いと考えるべきだろうか。
「ごめんね、ちょっと驚かそうとしただけで……」
「もういい、もう分かった」
 ルルーシュは投げやりな口調で言う。しかしそれはこの侵入者に対して怒っているからではない。ルルーシュは、ただ呆れているだけだ。
 厄介な侵入者のせいで酷い目に合うのはすでに慣れっこで、今更怒ったところでどうにもならない。彼はそれをとっくの昔に悟っている。
 仕方ない、こいつはそういう奴だ。
 ルルーシュは溜め息をつきながら机や床が汚れないよう、しっかりと周囲を見てエプロンを脱いだ。
「あ、ごめん! 僕が持ってるよ!」
 スザクはスザクなりに反省しているのだろう。スザクはルルーシュから汚れたエプロンを受け取り、それをさっと腕にかけた。
「……あれ?」
 ふと、スザクは首を傾げた。何故かふんわりと甘い匂いがしたからだ。その出所はルルーシュと、彼の着ていたエプロンにべっとりと付着している何からしい。
 一体ルルーシュは何を作っていたのだろう。スザクは首を傾げ、エプロンへと鼻を寄せた。
「……生クリーム?」
 スザクが訝しげに呟いた言葉を聞き、ルルーシュがぱっと顔を上げた。普段の彼からすると若干不自然な反応だ。何か理由があるのだろうか。
「これって、生クリームだよね。お菓子作ってたの?」
 スザクの素朴な疑問にルルーシュが曖昧に返事をした。やはり、何かがおかしい。
 まるで自分に知られたくないことでもあるみたいだ、とスザクは思った。
 彼は何を隠しているのだろう。部屋の中を見回して分かるのは、せいぜいルルーシュが何を作ろうとしていたかくらいなものだ。
「ケーキ……かな?」
 先ほどから気になっていた香りはオーブンからの物、そして彼がかき混ぜていたのは生クリーム、ともなれば答えは明白である。それなのにルルーシュは作っていた物を当てられたのが想定外だといわんばかりに目を見開いている。
「あ、ああ。ナナリーに言われたんだ、ケーキが食べたいって……」
 笑顔で頷くルルーシュの目が僅かに泳いだのを、スザクは見逃さなかった。ふうん、と興味の無さそうな返事をしてはいるものの内心は穏やかではない。
 やはりルルーシュは何かを隠している。そしてそれは自分にも隠さなければならないことのようだ。
 一体何故だろう。スザクはその真意を確かめるべく、ルルーシュの頬へと手を伸ばした。
「スザク?」
 スザクは疑問符を浮かべるルルーシュなどお構いなしで、その頬に付いていた生クリームを指ですくう。ぴくりとルルーシュの眉が動いたが、スザクは気にもとめずに笑顔を返した。
 一体こいつは何がしたいんだろう。
 ルルーシュは今まで自分の頬に付いていた生クリームを弄ぶスザクの指を見つめる。しかしどれだけ見つめても理解は出来ず、もう一度問おうと口を開こうとしたその時だった。
 ぱさ、とエプロンの滑り落ちる音が妙に大きく聞こえ、スザクの指が何故か目前に迫っていた。
「――っ!?」
 予期せぬ出来事にルルーシュが目を白黒させて呻く。気付いた頃にはもう遅かった。開きかけた口にスザクが生クリームの付いた指を突っ込んで来たのだ。
 奥へと逃げる舌をスザクは器用にくっと摘む。ほんのり広がる生クリームの甘みと僅かな痛みを感じ、ルルーシュは信じられないという顔でスザクを見た。
 驚きと戸惑いの入り混じった目を物ともせず、スザクの指はルルーシュの口内を犯していく。自分を押し退けようとしている手から徐々に力が抜けていくのを感じ、スザクはほんの僅かに目を細めた。
「苦しい?」
 唸り声を上げるルルーシュにそう問うと、当たり前だと言わんばかりに鋭い視線が返って来た。
 強がってはいるが、アメジストによく似た瞳が揺れている。
 そのことに気を良くしたらしいスザクはたっぷりと口内を蹂躙した後、二本の指をゆっくりと引き抜いてやった。
 くちゅ。指を引き抜いた際に粘着質な水音がし、ルルーシュが羞恥に頬を染める。
「……っ」
 突然の出来事にどう罵るべきか思いつかなかったしく、ルルーシュは荒い息をなんとか整えようとしながらスザクを睨んだ。
「美味しかった?」
 生クリーム。
 そう付け足しながらスザクが笑う。
 その笑みと唾液に濡れた指がいつぞやの情事を思い起こさせ、思わずルルーシュは顔を背けた。
「どうしたの?」
 スザクの濡れた指がルルーシュの形の良い唇をなぞる。その緩慢な動きに、ルルーシュはびくりと身体を震わせた。
 言葉は心配そうだが声は笑っていて、スザクがどこか楽しんでいることは明白だ。
 くそ、確信犯め。
 ルルーシュは心の中でそう毒づき、ため息をついた。
 その時だった。
「ねえ、僕にも味見させてよ」
 ぬる、と頬に生暖かい何かが触れ、ルルーシュは思わず悲鳴を上げた。
「な……スザク……!」
 抗議の声などまるで聞こえていないという顔で、スザクはルルーシュの頬に残った生クリームを舐めとっている。時折ちろちろと舌が耳に触れるのはわざとだろうか。
「っふざけるな……!」
「え? ふざけてないけど?」
 飄々とした態度のスザクに、ルルーシュは眉間の皺を深くした。
 抵抗しようにも、こうも身体を密着させられてはそれも出来ない。ルルーシュは悔しさからきっと唇を噛んだ。
「ほら、こんなとこまで付いてる」
「ひっ!?」
 つつ、とスザクの舌が耳を伝い、首筋に触れる。
「そんな、ところ……付いてるはずっ……!」
「付いてるったら」
 時折軽く歯を立てながら、スザクは本当に何かを味わうように舌を動かしている。しかし本当に生クリームが付着しているのなら、これだけ舐められてまだ付いているはずがない。それを分かっているからこそ、ルルーシュも必死で抵抗している。
「噛むな……ぁっ!」
「そんな顔で言っても説得力ないよ」
 首筋から口を離しながらスザクが、とん、とルルーシュの肩を軽く突く。
 もう脚に力が入らないのか、かろうじてスザクにしがみついているような状態だったルルーシュは簡単に尻餅をついた。
「おい……!」
 まさか、ここでする気なのか?
 ルルーシュが声を荒げた。彼がそうするのも無理はないことなのだが。
「そうだけど?」
 自分に覆い被さってきたスザクは対照的に、キョトンと目を丸くしている。
 よくもまあそんなしゃあしゃあとした態度がとれるものだ。
 ルルーシュは舌打ちし、スザクを睨んだ。
「いいか。部屋ならともかく、ここはキッチンなんだ。だからもし……」
「あれ、部屋ならいいの?」
 揚げ足を取ってにっこりと笑うスザクを見、ルルーシュはようやく自分の言葉がどのようにとられたのか理解した。
 そういう意味じゃない、と頬を染めるが、それこそ彼の思うつぼであることくらいルルーシュも分かっている。
「もしも途中でナナリーが帰ってきたら……!」
「大丈夫だよ。ナナリーは咲世子さんと散歩に出てるんでしょ? ならしばらくは帰って来ないと思うよ」
 それに、別に見られたっていいじゃない。
 スザクは何でもなさそうにそう言い、ルルーシュの服のボタンに手を掛けた。
「な……!」
 いいわけないだろう、馬鹿かお前は。
 ルルーシュはそう言おうとしているに違いない、とスザクは確信した。
 しかしそこはスザクだ。もちろんそんな言葉は言わせない。
 スザクは素早く自分の唇でルルーシュの口を塞いだ。先ほど指でしたのと同じように舌を絡め取ってやれば、すぐにルルーシュの抵抗は緩む。
「やっぱりルルーシュって可愛いよね」
 虚ろな目で自分を見つめてくる予想通りの反応に満足したらしく、スザクは上機嫌でルルーシュの上半身を肌蹴させた。
 当然、羞恥から僅かにルルーシュが声を上げる。しかし白い肌に指を滑らせるとそれは簡単に嬌声に変わった。
「っの……ばか……」
「何? もう喋れないくらい感じたの?」
 必死でかぶりを振るルルーシュにスザクはクスリと笑みを浮かべた。まだほんの僅かに触れただけだというのに。
 ああ、もしかして場所が違うせいかな。
 スザクは適当に納得し、この調子なら大丈夫だろうと早くもルルーシュのズボンに手を伸ばした。伸ばそうとした。
 ピピピピピ!
 キッチン中にけたたましい音が響き、弾かれたようにスザクが顔を上げる。音の出所を探る視線からは「このタイミングはひどいんじゃないか」という不満が明らかに見て取れた。
 ルルーシュは音の正体を知っているらしく、スザクを押しのけ音の出所に視線をやった。
「残念だったな、スザク。時間だ」
 時間?
 スザクは渋々身体をどけながら首を傾げた。まったく素晴らしすぎるタイミングで邪魔が入ったものだ。
 ルルーシュが服のボタンを留め直しながら、スザクの後ろを指差した。そこには先ほどまで確かに動いていた機械がある。
「……オーブン」
 はじめここに来た時よりも美味しそうな香りのするオーブンは、スポンジケーキが焼きあがったことを示していた。当然だがルルーシュが意図的に鳴らした音ではない。たまたま運が悪かっただけだ。
「ケーキが焼ける前に早く生クリームを用意したかったんだが、誰かが邪魔をしたせいで……」
「あ……ご、ごめん」
 ルルーシュは腕を組んでため息をついた。顔やら首やらを舐めまわされ、ついでに押し倒されたのだからそれも当然といえる。
 だが、やはり彼は怒ってはいない。怒ったところで身が持たないことは重々承知しているからだ。
「スザク、部屋で待っていてくれないか。邪魔されずに集中してケーキを完成させたいんだ」
 彼にそんなつもりはなかったのだが、スザクはやはり自分が邪魔をしているということを理解し反省したらしい。その言葉を聞いてがっくりと肩を落とし、ルルーシュの部屋へと向かった。
「……まるで犬だな」
 そのスザクの姿がまるで主人にかまってもらえない犬のようで、ルルーシュは今さっきまでの態度を思うと可愛く思えて仕方がなかった。





「スザク」
 あれから一時間くらいだろうか。
 まるで自分の部屋のようにくつろいでいたスザクは、ようやく帰ってきた部屋の主の姿を見てぱっとベッドから跳ね起きた。
 ルルーシュの手には一枚の皿。そしてその上にはチョコレートといちごの乗った三角形のショートケーキが乗っかっている。
「あ! ケーキ完成したんだね!」
 スザクは嬉しそうにルルーシュへ近寄った。ルルーシュも微笑み、こくりと頷く。
 しかし次の瞬間、ルルーシュは信じられない行動をとった。
 ……べしゃ!
「……え?」
 スザクは何が起こったのか分からない、という顔でルルーシュを見た。彼の顔は僅かに笑みを浮かべている。それを見る限り、足が滑ったわけではなさそうだ。
「えーと……もしかして怒ってる……?」
 スザクは苦笑しながら頬を指でかいた。その指にスポンジと生クリームがべっとりと付く。
 そう、何故かルルーシュはスザクの顔に完成したてのケーキの一切れをぶつけてきたのだ。
 もしかすると会長辺りによるドッキリカメラではないかと思い、スザクは周囲を見回した。しかしそれらしき影はどこにもない。ということは、ルルーシュはまだ生クリームを付けられたことを怒っているのだろうか。
「あれ……?」
 ぽとん、とチョコレートの塊が落ち、スザクはそれを拾い上げた。どうやらぶつけられた時に付着したのが自重で落ちたらしい。
 チョコレートには、ホワイトチョコレートで文字が書いてある。スザクが内容を理解し、読み上げる前にルルーシュは「落ちた物を食うな」とそれを取り上げ、ゴミ箱に放り投げた。
「ルルーシュ……今チョコレートに……」
 もしかして、とスザクが言いかける前に、今度はルルーシュがスザクの口を塞いだ。普段彼から仕掛けてくることは滅多に無い。スザクは驚きながらも、すぐに離れてしまった唇を名残惜しそうに見つめた。
「さっきのお返しだ」
 ルルーシュが少し恥ずかしそうに笑い、スザクの頬の生クリームを舐めとる。スザクにとってはこの機を逃すと一生有り得ないかもしれない光景だ。さっきの彼とは違って抵抗する理由はどこにも無い。
 一通り舐め終わった後も、ルルーシュはスザクの首に腕を絡めたまま放す気配は無い。スザクはその意図をくみ、クスクスと笑った。
 ルルーシュはルルーシュなりに、誘ってるつもりなんだろう。もっと素直になればいいのに、と。
「部屋ならいいんだよね?」
「……好きにしろ」
 ルルーシュはばつが悪そうに目を逸らし、蚊の鳴くような声で呟いた。素直じゃない言葉は、すべてイエスと取ってもいい。
「ありがとう、ルルーシュ」
「……ああ」
 スザクはちらりと先ほどメッセージ入りのチョコレートが捨てられたゴミ箱を一瞥し、恥ずかしがり屋な恋人を今度こそベッドに押し倒した。



『誕生日おめでとう、スザク』。



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