「な、んだよ」
 静雄の呟きが、薄暗い部屋に溶ける。
 目の前には折原臨也という、静雄がこの世で最も嫌っている男がいた。彼は今、ベッドに横たわり寝息を立てている。当たり前だ、ここは彼の自室なのだから。
「なんだよ、これ」
 ただひとつ異常があるとすれば、臨也の身体に繋がれた大量のチューブ達だろう。それらは四方に延び、やけに仰々しい機械に繋がっている。
「見ての通りだよ」
 静雄とは正反対の感情の無い声で、静かに新羅は告げた。
「もう、臨也の命は長くないんだ」
 まるでテレビドラマのようなその光景に、静雄は絶句する。
 ここしばらく臨也を見なかったおかげで平穏に過ごせていた。しかし今日、突然いやに真剣な顔の新羅が現れた。静雄は彼に強引に引きずられるようにして、ここまで連れてこられたのだ。静雄の力なら振り払うことは出来たのだが、セルティ以外のことでこんなに真剣な新羅を見たのは久しぶりだったので、静雄は大人しく従った。
「君の大嫌いな臨也が、もうすぐ死ぬってことだよ」
 そして今、二人は臨也を見つめている。静雄にとっては視界に入れることすら腹立たしい折原臨也を。
 新羅の声は表情とは裏腹に淡々としていた。その調子で新羅は小難しい病名を述べたが、静雄の耳には入らなかった。
「――ふざけんじゃねぇ」
 静雄はやっとの思いで、それだけを呟く。こんな状況になれば他にも何か臨也を嘲るような言葉が出てくるかと思ったが、いつも以上に何を言えばいいのか分からなかった。
 いや、こんな状況でスラスラと言葉が出る方がおかしいのだ。そんな人間がいるとすれば、それは目の前に横たわっている男だけだろう。
「っふざけんなノミ蟲!」
「静雄!」
 静雄は新羅の制止も聞かず、眠っている臨也の胸倉を掴み上げた。その衝撃に、臨也の瞼が震える。
「ん……シズちゃん……?」
 その弱々しい声と持ち上げた身体の軽さに、静雄が眉間に深く皺を刻んだ。注視するまでもなく、臨也は以前会った時より痩せている。顔色も陶器のように白く、あの臨也とは思えないほど儚い印象を受けた。
「……そうやって俺を油断させるつもりなんだろ? あぁ?」
「新羅に聞いた……? 俺さ、もうすぐ死ぬんだって……さ」
 静雄の言葉には反論せず、臨也は一方的にそう言った。おかしい。いつもの臨也ならば静雄の言った量の倍の言葉でペラペラと屁理屈を並べ立てるというのに。
 静雄の怪訝そうな視線に気付いたのか、臨也は弱々しく笑って頷いた。
「もう、喧嘩する体力も無いんだよ……。もうすぐ死んじゃうなんて、残念だなぁ……いつもなら……シズちゃんに喋る暇なんか与えないくらい……っ」
 そこまで言って、臨也はゲホゲホと咳き込んだ。酷く苦しそうな様子に、静雄は思わず手を離し、臨也の背中を撫でる。
 ――って何やってんだ俺は。相手はノミ蟲だぞ。
 臨也の呼吸が落ち着くと同時に、我に返った静雄はぶんぶん首を振った。いくら苦しそうだからといって、臨也に同情してしまったことに自分でも驚いたのだろう。
 やだなぁ、俺の心配してくれるシズちゃんなんて気持ち悪いよ。そんな言葉が返ってくるに違いないと、静雄は誤魔化すように臨也を睨んだ。
「ありがと、シズちゃん……」
 しかし驚いたことに、臨也の口から出たのは感謝の言葉だった。
「ノミ蟲……?」
「新羅、ちょっとだけ……シズちゃんと二人にしてよ……頼む」
 気持ちの悪いくらい神妙な臨也に静雄は狼狽した。本当にこれは臨也なのか、と。
 その間に臨也はか細い声で新羅に退室を頼み、新羅はコクリと頷いて従う。自分から味方を減らすなど、普段の臨也なら考えられないことだ。
 一体臨也は何を企んでいるのか。頭を巡らせる静雄を、扉の閉まる音が現実に引き戻した。
「あのさ……シズちゃん。もう俺は死ぬんだよ」
 戻ってきた現実に存在したのは、今にも消えてしまいそうな臨也だけだった。
 臨也らしからぬ弱気な態度に、静雄は怒鳴ることも忘れてしまう。
「手前がか? 殺したって死なねぇくせに」
「あはは……俺を何だと思ってるのさ。ほんとだよ……俺はもうすぐ死ぬ」
 やはり、臨也らしくない。静雄はギリッと歯軋りをし、臨也の様子を探った。
 臨也は気付いているのかいないのか、今までに見たことも無い儚げな笑みを浮かべている。
「新羅にシズちゃんを連れてきてもらったのは、お願いがあるからなんだ」
 だが、突然その顔が苦痛に歪む。先程よりも激しく咳き込む臨也に、静雄は殺したい相手であることも忘れて、その背を優しくさすってやった。
「ノミ蟲、しっかりしろ。……臨也っ!」
「シズ、ちゃん」
 咄嗟に名を叫ぶと、臨也の目から透明な雫がポロポロと零れ、シーツを濡らした。
「臨也……」
 二人きりの部屋に、名を呼ぶ静雄の声と、臨也の嗚咽が虚しく響く。
 臨也が何故泣いたのか、静雄には分からなかった。そして、何故自分の目から今にも涙が零れそうになっているのかも。
「シズちゃん……君が俺を嫌いなのは知ってる。無理を承知でお願いするんだけど……」
 臨也はチューブの延びる右腕で涙を拭い、そのまま顔を隠しながら、消え入りそうな声で懇願した。
「嘘でもいい。愛してる、って言ってよ」
 臨也の言葉に、静雄は目を見開く。今し方臨也が発した言葉の意味を理解するのに、少し時間を要した。
 理解出来た頃には、次の疑問が浮かび上がる。何故俺にそんなことを頼むのか、と。
 静雄が臨也を嫌うのと同じく、臨也も静雄を嫌っていた。なのに何故、その静雄に。
「もう時間が無いんだよ。最期に、お願いだから」
 最期。
 その言葉の意味は明白で、静雄の頭に血が昇る。
「ふざけんじゃねぇ! 手前は俺が殺すんだ! 勝手に逃げてんじゃねぇ!」
 そう叫んだ途端、静雄の眼から涙が溢れて頬を伝った。どうしてなのかは、静雄にも分からない。今すぐ臨也を殺してやろうと振り上げた拳も、途中で止まってしまった。
「シズちゃん」
 臨也はただ、顔を隠し、俯いたままだった。その細い肩が僅かに震えている。
 今にも臨也が消えてしまいそうな錯覚に襲われ、静雄は臨也を掻き抱いた。突然のことに戸惑ったように臨也は身を捩る。
「シズちゃ、」
「臨也、愛してる。……っだから死ぬんじゃねぇ」
 静雄の絞り出すような言葉に、臨也が驚いたように肩を震わせた。
「臨也」
 静雄は臨也を引き止める為に、懸命に名を呼んだ。臨也の名をこんな風に呼ぶのは初めてかもしれない。その響きは酷く儚くて美しいものに感じられた。
「頼む。死ぬな、臨也」
「あ、ちょ、シズちゃん……苦しいよ、離してよ……」
 いつの間にか力を込めすぎていたのだろう。臨也が困ったように身を捩るのを見て、静雄は臨也を解放した。
「悪い、臨也……大丈夫か?」
「……っく……」
 静雄は少し離れて臨也の顔を覗き込んだ。臨也は再び俯き、肩を震わせ――
「……く、くはははははっ!」
 ――突如、笑い出した。
「は?」
「新羅、今の聞いたー!?」
 固まる静雄をよそに、臨也は体中のチューブを取り払うなり死にそうな人間とは思えない足取りで扉を開け、先程外に出た新羅と合流した。
「まさか本当に言うとは思わなかったよ……。うーん、静雄は基本的に根は温良優順だけど、まさか臨也相手にねぇ……」
 新羅は興味深そうに頷いてみせた。臨也は涙が出るほど笑っている。
 そんな二人に置いてけぼりにされ、未だに状況が把握出来ないでいる静雄に、臨也は何かを投げた。数字の並んだ紙、所謂カレンダーだ。
「ここでシズちゃんに問題です。今日は何月何日でしょう?」
「な……」
 相変わらず呆けた様子の静雄に、臨也は悪魔のような笑みで穏やかに告げる。
「今日は四月一日、エイプリルフール」
 静雄が徐々に目を見開くのに比例し、臨也の口元がつり上がる。その笑みは愉しげであり、そこに先程の儚さは微塵も存在しなかった。
「俺が死にそう? 俺がそんな簡単に死ぬわけないじゃない。優しいシズちゃんには悪いけど、俺があんな気持ち悪いこと本気で言うと思う?」
 静雄の拳がわなわなと震える。そこで止めればいいものを、臨也は嘲笑を浮かべ最後の引き金を引く。
「俺はシズちゃんのこと、大嫌いなんだからさ」
 その言葉に、静雄が拳を振り上げ、床を蹴った。



「で、どうして手前が協力してやがった?」
 夜の池袋に、二つの影が並ぶ。片方は未だ額に血管を浮かび上がらせ、今にも暴れ出しそうな取立屋。もう片方は顔が腫れ上がり変形した闇医者だ。
「セルティがどうしても欲しいって言ってた古い絶版の本を、臨也が手を尽くして探してくれたことがあってさ。その時のことをネタに協力を迫られて」
 喋りにくそうに、新羅は腫れた頬をさすった。幸い骨に異常は無い。臨也を取り逃がした苛立ちをぶつけたにしてはダメージが少ないので、これは臨也に協力した自分に対する報復ということか。
「あのノミ蟲野郎、次会ったらただじゃおかねぇ……!」
 静雄が指の骨をゴキリと鳴らすと、新羅がクスリと笑った。
「……あぁ?」
「わっ、ゴメンゴメン」
 それを侮辱と取ったらしい静雄に、新羅は慌てて両手を振る。まるで自分は危害を加えないと主張するように。
「……なんだよ」
「いや、別に……」
 新羅はそう言ったが、何かを誤魔化しているのは明らかだ。
 二人はしばらく沈黙を守っていたが、丁度分かれ道に差し掛かったところで、新羅が口を開いた。別れる直前まで黙っていたのは、追求されたくなかったからなのだろう。
「……臨也は、今日三つ嘘を吐いたけど、実は一つだけ真実だったんだ」
 言いながら、新羅は足早に遠ざかっていく。静雄に何も言わせないつもりらしい。どういう意味だ、と聞き返した静雄の言葉を遮り、新羅は付け足した。
「――それと、僕は臨也の目から水が零れる仕掛けなんて、してないんだよ」
「っどういう意味だよ!」
 もう一度、静雄は同じ言葉を繰り返す。しかし新羅はもう振り向かなかった。
「……一つ、だ?」
 新羅は何か勘違いをしている。今日臨也の発した言葉は大まかに分けて確かに三つだ。
 1『自分が死にそうだということ』。
 2『自分が死にそうだというのは嘘だということ』。
 そして3『静雄が大嫌いだということ』。
 この三つのうち虚偽は1だけだ。一つだけなのは嘘の方ではないか。
 まったく意味が分からない。言葉の真意を問おうにも、既に遠く離れた背中が拒絶を示している。
 静雄は新羅を問い詰めることを諦め、自宅へと足を向けた。新羅の言葉などどうでもいい、ノミ蟲を殺せばすべて済む話だ。そう自分を強引に納得させながら。



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