「名は体を表す、なんて言葉があるけどさ」
 男は上機嫌で歩いていた。身体の横に付けた大きなスーツケースの車輪がゴロゴロと音を立てる。その音から察するに、中身はそこそこの重量のモノが入っているようだ。
「スーツケースって、スーツよりも他のモノを入れるのに重宝すると思うんだ。俺はね」
 まるで誰かが隣にいるような口ぶりで男は独り言を続けている。肩に担いでいるのはホームセンターで買ったばかりのホースだ。ホースは細く、花に水をやるのに丁度いいだろう。通行人からは男がガーデニングでも始めたかのように見えたかもしれない。
 しかし、男が咲かせようとしている花は、凡人の想像を遥かに超えたものだ。
「君もそう思うよね? 三好吉宗君」
 嬉々として歩く男の隣のスーツケースが、不自然な動きで揺れた。まるで中に生き物でも入っているかのように。



「ここ、は……」
「うん? 何か言った?」
 三好は真っ暗な狭い空間で、掠れた声を上げた。身体を丸めて横になったまま身動きひとつ取れない。返ってきた臨也の声もなんとなく遠く、不明瞭だ。
「……っ!? なんだ、これ……!」
「落ち着きなよ三好君」
 わけが分からず、必死で暴れる三好の頭の上で、ドスンという音がした。そして臨也の声も、同じ方向から聞こえる。
「君がいるのはスーツケースの中だよ」
 その言葉で、三好は音の正体を知った。スーツケースの上に臨也が腰を下ろした音だ。
 三好はなんとかその方向をドンドンと叩くが、当然無駄な抵抗だった。
「――そうだね、まず右手をまっすぐ伸ばしてみるといい。それで君の置かれてる状況は完全に把握出来ると思うから」
 臨也の声がわずかに遠くなった。どうやら立ち上がったらしい。いつまでも暴れていても埒が明かないので、三好は大人しく支持に従う。横向きに寝かされた状態から手を伸ばすと、何かに右手が触れた。外から何かが中に入ってきている。
「それが何か当ててごらんよ、名探偵さん」
 臨也は煽るように言った。臨也の声は徐々に遠くなる。スーツケースから離れていっているらしい。
 三好は狭いスーツケースの中で僅かに手を動かし、その正体を探る。ビニール製の細い管のようなものらしい。
「……なっ!?」
 不意に、その先端から何かが出てきた。何か、などということは考えなくても分かる。水だ。三好はそこで、この物体がホースであること、そして現在の自分の状況を理解した。
 遠くで臨也の笑い声が聞こえる。離れたのは蛇口を捻るためだったようだ。
「前に説明してあげたよね? 水責めには二種類あるって。この際だからもう片方にも頑張って耐えてもらおうと思って。人生、何事も経験だよ」
 水はほんの僅かずつ出ている。ホースが細いこともあるが、臨也がわざとそうなるように調節しているのだろう。長い間溺死の恐怖に晒される三好を観察するためか。先ほど叩いた感触から、スーツケースが水を通さない素材で出来ていることは想像出来る。このまま水が入り続ければ本当に溺死してしまうかもしれない。
「っ臨也さん!」
 思わず縋るような声で三好は叫んだ。暗闇で身動きが取れないという状況は精神を削っていく。早くも三好は精神的に疲弊していた。
 いや、疲弊はそれが原因ではない。
 この男が――折原臨也という存在が、三好を蝕んでいた。
 初めはそんなことなど無かった。軽い憧れの気持ちで臨也に近付いただけだった。臨也の方も同じくある程度の距離を保ち、三好を適当にあしらったり利用していた。しかしいつの間にかその均衡は崩れていた。臨也の観察は徐々にエスカレートし、今では三好に拷問まがいのことを仕掛ける始末だ。一体どんなきっかけで臨也がそのような行動に出始めたのか、などということは三好には分からない。
「アハハハハ! どうしたの三好君、さっきみたいに暴れてごらんよ! ……それともあれかな? 三好君は箱に入れられた猫と同じ状態だから、生きてるのか死んでるのか分からないのか。まあ、毒ガスじゃなくてただの水だから、直ちにそういう状態になるとは思えないけど」
 まるで馬鹿にするような口調で、臨也は言った。従うことに不満はあったが、三好は生きていることを主張するように再び暴れた。臨也がせせら笑った気がしたが、そんなことは問題ではない。早く脱出しなければ、本当に臨也は三好を殺すだろう。
「猫といえば、こんな話を知ってるかな?」
 再び臨也の声が近くなる。スーツケースの隣に戻ってきたらしい。蛇口から離れたということは、水を止めるつもりが無いことを表す。
 臨也は淡々と、猫の話を始めた。
「ある空港で荷物の検査をしてた時、スーツケースの中から死んだ猫が出てきたんだ。当然係員はびっくりするよね、管理責任問題になるだろうし。そこで係員は慌てて死んでた猫にそっくりな猫を見つけてきて、何食わぬ顔でスーツケースに入れたんだ。それから準備万端で客に荷物を渡した。客は当然荷物のチェックをするためにスーツケースを開けるよね。中にいた猫は元の猫そっくりだ、ばれるわけが無い。係員は緊張しながらも確認したんだ。荷物はそれで間違いないですか。そしたら、客はなんて言ったと思う?」
 水位が上がってくる。横向きに寝ている三好は、十センチも水が溜まれば簡単に溺れてしまう。三好の緊張など構わず、臨也はゲラゲラと笑った。
「『これは私の荷物じゃない、私の猫は死んでたはずなんだ』って言ったんだってさ! 係員の責任なんてどこにも無かったんだって。面白い話だろう!?」
 当然、命の危機にある三好に答える余裕など無い。
 それが気に入らなかったのか、臨也はスーツケースを蹴った。思わず三好が短い悲鳴を漏らす。溜まり始めた水がちゃぷんと音を立てた。
「ここで三好君に質問です」
 表情が見えない分、いつも以上に臨也の声が恐ろしい。声には何の感情もこもっていないが、外ではどんな顔をしているのか分からない。今の態度からして、怒らせてしまったのだろうか。
「箱の中の猫と、荷物の中の猫。三好君はどっちになりたい?」
 ビクッと三好は身体を震わせた。
 箱の中の猫は生死不明で、荷物の中の猫は死んでからスーツケースに入れられていた。
 つまり中で耐えるか、外に出してもらえる代わりに死ぬか、どちらかを選べと臨也は言っているのだ。
 三好は口を押さえ、出来る限り音を立てないよう努める。臨也が笑みを浮かべたのが分かった。
「なるほど。物音ひとつ立てないなんて、確かに生きてるか死んでるか分からないねえ」
 鈍い音が続いた。臨也がスーツケースを踏みつけているのだろう。中にいる三好には酷い轟音と衝撃だったが、必死で耐えた。
「……つまらないなぁ」
 数十秒も経たないうちに、音は止まった。三好は悔しさから漏れそうになった嗚咽をかみ殺す。
「中の様子を想像するのも楽しいけど、やっぱり見えない上に反応が無いと面白くないや。もう死んだふり止めていいよ」
 そんな身勝手なことをいいながら、臨也はスーツケースを開けた。すぐさま身を起こした三好が肩で息をする。中の水はそこそこの量になっていた。
「げほ、ごほっ! ……はあ……はあ……」
「大丈夫?」
 咳き込む三好の背を、臨也が撫でる。
 こんな時、三好は臨也が何を考えているのか分からなくなる。自分を殺そうとしたかと思えば、急に手のひらを返す。もちろん臨也本人に言わせれば観察の一環なのだろうが。
「……っく……」
 そうだと分かっていても、死に掛けた直後の優しさには抗えない甘さがある。
 三好はわけも分からず、泣きじゃくった。臨也も背中を撫でる手を止めず、まるで幼い子供にするように三好をあやしている。
「臨也さんは、何で」
 そう言いかけて、三好の言葉は止まった。
 口内に入れられたホースから出る水が、肺へと入り込んだからだった。



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