男が手にしていたのは、小瓶とハート型の風船だった。



He is my heart



「今日は化け物の生まれためでたい日だ。だから俺から君にプレゼントをあげるよ」
 そう言った男の声は、まるでニュースの加工音声のような、有名なキャラクターのもののような、甲高い不気味なものだった。
 ヘリウムガス。静雄の頭にその単語が浮かんだ。
 確かあれを吸って声を変えるパーティグッズがデパートなんかで売ってたな。それに似てる。
 或いは機械を通して喋っているのかもしれないが、静雄はポップな絵の描かれたボンベを思い浮かべた。
 どちらが正解かを確かめる術は無い。静雄の前に佇む男はフードを被り、更に面のような何かで顔を覆い隠していたからだ。両手に物を持っているので、あの面の中に声を変える何かが仕込まれているのだろう。
「ここに、優しい俺が君の為にわざわざ知恵を絞って考えた二つのプレゼントがある。だけどあげられるのは片方だけだ。どっちか好きなのを選んでよ」
 男は丁度釣り合った天秤のような形で、両手を肩の高さでぴたりと止める。そして首だけを動かし、まず右手を見た。
「一つ目のプレゼントはこの小瓶。今は空だけど、君がこっちを選んだ時には中に人間になれる薬が入っているよ。これを手に入れるにはとんでもない労力と莫大な金が必要だ。きっと君じゃ一生かかっても手に入れられないだろうね。俺が今まで培ってきた信用や独自のルート、集めた情報、そして稼いだ金を総動員してやっと手に入る代物だ。ある意味、俺の人生の結晶ともいえる」
 静雄はまず、その正体が毒ではないかと勘ぐった。まさかあのノミ蟲が、俺にそんなものを渡すわけがねぇ、と。しかしそうだとすれば黙って飲ませればいい。わざわざ誕生日プレゼントを選ばせる、などという形にする必要は無いはずだ。臨也なら、静雄が信じるはずが無いと分かっているに違いないのに。
 静雄がギロリと睨むのも構わず、男は左に首を向けた。左手の上の風船はぷかぷかと浮いている。空気ではなく、ヘリウムガスが入っているらしい。
 男はゆっくり下降する風船を下から叩いて浮かせながら、例のアヒル声で平然と言い放った。
「二つ目のプレゼントは、俺の命だよ」
「……あぁ?」
 聞き取れなかったのか、静雄が聞き返す。いや、本当は聞き取れていたのだが、耳を疑わざるを得ない内容だったのだ。
 フードに付いたファーを揺らしながら、男は同じ言葉を繰り返した。そしてまったく変わらぬ口調で言葉を続ける。
「君が普段から殺したがってる俺を、望み通り殺させてあげるって言ってるんだよ。このハートは心臓の代わりだ。さっきの小瓶が俺の人生の結晶だとすれば、こちらは俺の人生そのものってことになるのかな? まあどうでもいいか。とにかく君がこっちを選んだなら俺を好きなように殺す権利をあげよう。まさに出血大サービスだ。どうかな。普通の人間になること、俺を殺すこと、どちらも君が一番欲しがってたものだよ」
 何が狙いだ、と静雄は問うた。
 彼には何度も、静雄は煮え湯を飲まされている。常にろくでもないことを考えているのだと、身に染みて分かっていた。簡単に疑惑の眼差しを解けるわけがない。
 男は静雄の言葉が終わる前に、甲高い声のままケタケタと馬鹿笑いをした。
「やだなあ、誕生日プレゼントだってば! それに毒を盛られるのを警戒してるなら、薬は諦めて俺を殺す方を選べばいいだけの話だしね。それはそれで君の願いは一つ叶うんだから」
 ギリッと歯を食いしばり、静雄は殺意を込めた眼で男を睨んだ。
 一体何を企んでやがる。
 静雄も普段の臨也が相手なら、勘を働かせ、多少のことは察知出来る。しかし今日はそれがまったく出来なかった。それどころか、感じるのは空恐ろしいほどの不気味さだけだ。何故こんなにも動揺しているのか。何故こんな『ノミ蟲』相手に。
 静雄は大股で踏み込んで距離を詰め、恐怖心を振り払うように男の手を掴んだ。ハートの浮かんだ左手を。
「へえ、そっちを選ぶの? 俺のアドバイスに素直に従うわけだね、あはははは。じゃあこれはもういらない」
 掴まれたままの左手で男は風船を弄んでいる。そしてふと手持ち無沙汰な右手から、例の小瓶を床にたたきつけた。ガラスで出来ていたらしいそれは粉々に砕け散ってしまう。
 静雄は小瓶を少し惜しげに見たが、すぐに顔を上げた。
「で? どう俺を殺すつもり? 煮るなり焼くなり……と言いたいところだけど、そういうのは止めて欲しいなあ。ほら、死体がとんでもないことになりそうだし。俺が死んだら可愛い妹達が泣くかもしれないしさ。いや、それは無いな。でも死体があまりにも処理に困ることになると、余計な手間が増えるからね。そんな面倒は残したくないんだよ、家族想いだろう? あ、別に家族がどうのは命乞いとか同情誘う為じゃないから安心していいよ。俺が自分の物をどう使おうと関係無いからさ」
 殺せというわりには黙る気配の無い男に苛立ち、静雄は舌打ちをした。いつもならばとっくに怒りを爆発させているはずだが、何故か今日はまだ少し冷静だ。調子の狂う発言群のせいかもしれない。
「殴る? 蹴る? 手足を引きちぎる? 内臓をえぐり出す? 首をはねる? さあ、早く教えてくれ。君はどうやって俺を殺したいの?」
「っ手前……」
 左手を掴む手に力を込めると、男がクスリと笑ったのが分かった。
「――ああ、俺をいつでも殺せる状態で奴隷として使うって手もあるかな。そっちの方が俺にとっては死ぬより辛いかもしれない」
 一体何を考えているのだろう。静雄にはまったく理解が出来なかった。理解出来ないのはいつものことなのだが、今日は特にそうだ。まるで別人を相手にしているかのように、あのドス黒い気配すら感じない。
 それに気付いた時、静雄はゴクリと唾を飲んだ。
 違う。こいつは俺の殺したかった奴じゃねぇ。あのクソうぜぇノミ蟲の折原臨也じゃねぇ。
「可哀想な化け物の君のことだ。存外、そうしたいんじゃないのかな。自分のことを愛してくれる人間が欲しいんだよね。なら言い換えようか。二つ目のプレゼントは俺を好きにする権利をあげよう。本当はそっちが欲しかったんだろう。さっき言った通り、俺が自分の命をどう使おうと勝手なわけだ。なら、それも構わないよ。化け物の君を愛してあげられるかは分からないけど、君がしたいようにするには君の自由だ。俺を殺すのも、奴隷にするのも、飼うのも、性欲処理に利用するのも、俺は受け入れてあげよう」
 戦慄したような静雄の視線に気付いていないのか、男は自ら墓穴を掘るような発言をした。あれほど静雄を嫌っている臨也であれば絶対に出ない発言だ。
 今になって思えば、あの虫唾の走るような気配も、神経を逆撫でするような発言も何も感じなかった。それが静雄に怒りが沸かない理由だったのだろう。まるで男の左手の風船の中身のように、存在すら感じない。
 無色、無臭、無味、無毒。折原臨也はそんなヘリウムから最もかけ離れた人間のはずだ。
「手前……騙しやがったな? 手前は誰だ、あのノミ蟲の仲間か? ノミ蟲のフリして何企んでやがった?」
 騙されていたと分かれば、ふつふつと怒りが沸いてくる。衝動に突き動かされるまま男の胸倉を掴みながら叫べば、男はゲラゲラと下品に笑った。
「やだなあ、騙したなんて言いがかりは! 酷いなぁ、これだから知能の足りない化け物は。よく考えてみてよ、……誰も俺が折原臨也本人だとは言ってないじゃない」
 フードの付いた黒いコートを着た男は、そう言って笑った。そして風船を上空に指で弾き、すっと面を取る。
「――手前は……!」
 静雄は面の下から現れた素顔に、目を見開いた。そこにあったのは――



「なッ!?」
 じゅうっと額が焼けたような気がして、静雄は飛び起きた。辺りを見回す過程で燦々と輝く太陽が直に眼に入り、サングラスをしていなかったことを思い出す。
「平日の昼間から随分暇なんだね? あ、またクビになったから公園で時間潰してるとか」
 人を小馬鹿にするような笑い声が聞こえ振り向くと、少し距離を取ったところに臨也が佇んでいた。
「今日は天気がいいとはいえ、肌寒くて昼寝に向いてるとは思えないけどね」
 昼寝?
 静雄は先程まで目の前にいた男のことを思い出す。あれは夢だったということか。
「シズちゃんと違って繊細で綺麗好きな俺にはとても真似出来ないよ。公園で昼寝なんて」
 いまいち思考が追い付かない静雄に、臨也は大袈裟に手を広げながら言った。その聞くだけで反射的に苛立つような声は、紛れもなく臨也そのものだ。
「臨也……だよな」
「はぁ? どうやら寝ぼけてるらしいね。まあ、シズちゃんが俺を目にしていながら追いかけて来ないなんて、薄々そうだろうとは思ったけどさ」
 普段なら殴り飛ばしたくなるような臨也の言動も、何故か懐かしいものに感じられる。静雄は頭をかき、試しに聞いてみた。
「なぁノミ蟲。もし俺が手前の人生をくれって言ったらどうするよ」
「……なにそれ、プロポーズ? うわぁ鳥肌立った。寝ぼけてるにしてもそれは純粋に気持ち悪いよ、シズちゃん」
 臨也は心底嫌そうに顔を歪めてみせた。やはり臨也はこうでなければいけない。殺させてやるなどと言い出す臨也など、気持ちの悪い偽物だ。
 そうだ、俺が殺してェのはこいつだ。このノミ蟲、折原臨也だ。
 静雄はニイッと笑い、いつもの調子でゆっくりと距離を詰める。
「で、手前は今俺に何しやがった?」
 静雄がいつもの調子に戻ったのに気付いたのだろう。臨也はどう見ても作り物のわざとらしい爽やかな笑顔で、左手に持っていた物を静雄の目線に掲げた。
「やだなぁ、ただのあったかい缶コーヒーだよ。シズちゃんにあげようと思ってさ」
 臨也は缶コーヒーを、上ギリギリのところを掴んだまま何度か振ってみせた。その持ち方から察するに買ったばかりの熱いものだろう。それが先程額に押し付けられたものの正体だと、静雄は一瞬で悟った。
「手前のことだ、どうせ毒でも入れてやがるんだろ」
「まだ開けてないよ、ほら」
 疑いの眼差しを向ける静雄に、臨也はヘラリと笑って缶を投げてよこした。確かにプルタブは倒れたままだ。それでも、静雄は飲む気がしなかった。理由は二つある。臨也から渡された物だったから、そして嫌がらせのようにブラック無糖だったからだ。静雄は黙って缶を地面に置いた。
「悪いけど、俺は約束があるんだよね。今日は一年で一番嫌いな日だし、わざわざ池袋まで来たくなかったけど仕方ないか」
「あぁそうかよ、じゃあここで死にやがれ!」
「生憎だけど、俺の命をシズちゃんにプレゼントする気は無いよ。そうするくらいなら舌でも噛んだ方がマシだ」
 臨也は煽るように舌を出すなり、脱兎の如く走り去ってしまった。
 懐かしいと感じたのは一瞬だけだったようだ。やはり、臨也は臨也である。
「……っのノミ蟲!」
 静雄は臨也から渡された誕生日プレゼントの缶を、中身が入ったまま思い切り踏みつけ、潰した。飛び出たコーヒーの中で、缶が銀色に光る。そこに映った自分の顔を見ながら、静雄は苦々しい表情で舌打ちをした。



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