がたん、と部屋が揺れたような衝撃で折原臨也は目を覚ました。
 ――……生きてる……んだろうね。
 死後の世界などというものがあるとは思っていなかったので、臨也はここが現実だと認識した。そうでなくとも酷く頭と喉が痛むので、死んでいるはずがないだろう。
 この痛みはおそらくガスの後遺症だ。自分が生きているということは、かろうじてガスが致死量ではなかったのかもしれない。
 臨也は意識を失う前の出来事を思い出す。まさかあの三好吉宗に殺されかけるとは。しかもあのような方法で。
 逃げたければ殺すつもりでこいと言ったのは臨也の方だが、本気で実行するとは思わなかった。相手は一般人、しかも平凡な高校生だ。臨也が油断するのも無理はなかっただろう。
 ――それにしてもこれは……。
 臨也は狭く暗い空間で身動ぎした。そして自分の状況を確認し、認識する。臨也はいつの間にか両手を縛られ、口には布で猿轡をさせられていた。そして耳にはイヤホンがささっており、コードの先は無線機のようなものに繋がっている。全て意識を失っている間にされたものだと見て間違いない。
 これをした人間が誰か、などということは考えるまでもないだろう。臨也がいる空間の正体も。
『臨也さん、起きましたか?』
 ザザザとイヤホンにノイズが走り、つい最近聞いたばかりの声が聞こえてきた。三好吉宗の声だ。おそらく中の無線機が音を拾っているのだろう。臨也が目を覚ましたことに気付いたらしい。
 臨也は返事をしようとしたが、猿轡をしている状態では呻くことしか出来ない。返事など不可能だ。臨也から何の反応も返らないことを予測していたのか、三好がクスリと笑う声がした。
『移動中なので騒がないで下さいね。もし起きてるなら、二回、スーツケースを叩いて下さい』
 ――移動中?
 先程からスーツケースが揺れているのは外を移動しているせいらしい。気絶している間に鍵を奪ったのだろう。
 何故自分が生きているのか、何故どこかに連れていかれようとしているのか。聞きたいことは山ほどあるが、まず臨也は素直に従い、スーツケースを足でノックした。
『今、僕の泊まってるホテルに移動中です。あの部屋はガスで大変なことになっちゃったので。詳しいことはそれから説明しますね』
 臨也の疑問を見越し、三好がそう説明する。あの毒ガスが充満する部屋にいては間違いなく死んでしまうだろう。しかし逆にいうと、臨也が死なないように三好は場所を変えようとしているということになる。臨也を殺すつもりだったのではなかったのだろうか。
『何度でも言いますけど、騒がないで下さい。今外にバレて困るのはそっちなんですから』
 疑問ばかりがわいてくるこの状況で、三好はあっけらかんと言った。一体どういう意味だ、と臨也は眉を潜める。確かに手は不自由だが、幸い足は縛られていない。スーツケースから抜け出せさえすれば逃げるのは容易いだろう。
「『おう、三好』」
 しかし、臨也はその策の実行は不可能であると瞬時に悟る。スーツケースの外とイヤホンから同時に聞こえた、よく知る声の主によって。
「『こんばんは、静雄さん。わざわざありがとうございます』」
「『なーに、いいんだよ。後輩の頼みぐれぇいくらでも聞いてやるって』」
 平和島静雄。臨也を最も嫌悪している化け物だ。
 静雄はいつも池袋に現れた臨也を抹殺しようと追いかけ回している。そんな静雄の前に抵抗の出来ない状態で臨也が現れれば、どうなるかは容易に想像が可能だ。
『……それより、電話で言ってた話……マジなのか? 誰かに見られてるってのは』
 静雄が声のトーンを落とし、三好にそう確認する。スーツケースの中にいる臨也にも、話の内容は無線機を通して聞こえてきた。三好は神妙な声で肯定する。
『はい……気のせいかもしれないんですが、ずっと誰かが傍にいる気がするんです……。さすがにホテルまで行けば安全だと思うんですけど……』
『……確かに、なんだか近くに誰かいるようないねぇような、妙な気配はしやがるが……。クソッ、よく分からねぇな。とにかく、安心しろ三好。俺がきっちりお前をホテルまで送り届けてやる』
 ――シズちゃんを監視に付けるつもりか……!
 それは間違いなく、三好の方便だった。三好は静雄を使い、臨也を逃がさずにホテルまで連れていくつもりなのだ。
 外に出ることは出来ない。いや、スーツケースに臨也が入っていると感付かれることすらあってはならないだろう。頭痛に苦しみ唸ることも、喉の痛みを和らげようと咳払いをすることも許されない。
「…………ッ!?」
 突如、ガタンとスーツケースが揺れ、臨也は強かに頭を打った。脳がグラグラと揺れるような錯覚に息を呑む。おそらく声を上げさせようと、わざと三好がスーツケースを乱暴に扱っているのだろう。臨也は声を抑えようと口に巻かれた布をきつく噛んだ。
 ――なるほど、両手を縛ったのはこういうことか。
 三好が何故足を縛らなかったのか疑問だったが、その謎が今ようやく解けた。両手を縛られていては口を押さえ、声が漏れるのを防ぐことが出来ない。猿轡をされていればなおのことだ。ならば考えられるのは一つ。三好は臨也が逃げようとすることも計算に入れた上で、そんなことはどうでもよく、ただどこまで臨也が耐えうるかを実験しているのだ。もし臨也が強行突破に出ても慌てもせず、淡々と観察するだろう。
 悪趣味だ、と自分のことは棚に上げ、臨也は内心毒づいた。


◇◆


 先程三好に注意を促す静雄の声がしたが、それ以降何も聞こえなくなった。どうやらホテルに着き、静雄は帰ったらしい。
 酷くなる一方の頭痛にそろそろ限界が近くなっている。換気を必要とするガス中毒の中、猿轡をされてスーツケースという気密性の高い場所に閉じ込められていれば当たり前だ。もしかすると、ガス中毒から発熱などが起きているのかもしれない。
『……びっくりしました、まさか一言も喋らないとは思わなかったから』
 ふっと浮き上がるような感覚を感じるとともに、三好の声が聞こえた。エレベーターに乗ったのだろう。
『その中って結構苦しいですよね。なにより臨也さん僕より大きいから窮屈でしょうし』
 三好は感嘆したように感想を述べる。しかし内容に似合わず口調は淡々としていた。やはり臨也の反応などどうでもいい、というふうだ。
「『もう喋っても大丈夫ですよ、部屋に着いたので』」
 三好は声の音量を上げ、スーツケースに向かって話しかけてきた。その言葉を肯定するように、スーツケースの車輪の音と揺れ方が変わる。固いコンクリートから絨毯の上に移動したようだ。
 しかし喋ってもいい、とは何をいけしゃあしゃあと。臨也は舌打ちをしたくなる。
「『あ、そういえば喋れないんでしたっけ。忘れてました』」
 外とイヤホンから同時に、三好のとぼけた声がした。イヤホンからの音声は頭に直接響いて吐き気がする。或いは、嘔吐させないための猿轡なのかもしれない。
 早くここから逃げ出さなければ、今度こそ本当に死んでしまう。焦り始めた臨也とは逆に、三好は呑気な調子だ。
「『……まあいいや、開けますね』」
 三好が動く気配がし、何かが外れる音がした。スーツケースのロックを開ける音だろう。
 臨也は頭痛をこらえ、ガス中毒にも関わらずぐっと息を止めた。まさか再び毒ガスなどを使ってくるとは思えないが、念のためだ。そして野生の獣のように周囲を警戒する。目に入るのは何の変哲も無い、ごく普通のホテルの一室の風景。今のところ、怪しい仕掛けなどはなさそうだ。
 手は縛られているのでやむを得ず足だけを使い、芋虫のような体勢で臨也はスーツケースの外に身体を出した。
「――あぁ、そうだ」
「ッ!」
 臨也の上半身がスーツケースの外へと出た時だろうか。突然、臨也の背中に痛みが走った。
 正体は確かめるまでもないが、上半身を捻って後ろを見上げると、三好が足でスーツケースを再び閉めようとしていた。結果、当然ながら臨也はスーツケースに身体を挟まれる形になる。
「聞きたいことがあったんですよね」
 三好はそのままぐっと、スーツケースを踏みつける足に体重をかけた。ただでさえ酷い吐き気がするのに、丁度挟まれている胃が悲鳴を上げているのが分かる。
 込み上げる胃酸を堪えながら、臨也は三好を睨んだ。しかし、すぐにその目は驚愕に染まる。臨也を見下ろす三好の目が、今まで見たことが無いほどに冷淡な色をしていたからだ。本当に彼はあの三好吉宗なのかと臨也が疑う程の。自分の知る三好吉宗は今だかつて一度もこんな目をしたことは無かった。
「……臨也さんって、僕のことが好きなんですよね?」
 淡々と、抑揚の無い声で三好は言った。
 面白い冗談だね、自惚れが過ぎるよ、当たり前だよ俺は人間全てを愛してるんだから。頭痛の合間に反論はいくつでも浮かんだが、臨也はそれをしなかった――正確には出来なかった。
 二つある理由のうち一つは、猿轡のせいで喋ることが出来なかったから。もう一つは、不本意ながらそれが自分のたどり着いた真実だったためだ。
しかし、何故それを彼が知っているのか。自分はそれを見抜かれるようなへまはしていないはずだ。あの夜三好が目を覚ましていたとは知らない臨也は、どこからその情報が漏れたのかと反射的に記憶を辿る。
「……言葉で煙に巻かないと誤魔化せないんですか?」
 臨也の動揺を見抜いたように、三好は溜め息を吐いた。僅かに眉を寄せ、まるでつまらないものを見るような目付きで。
「まあいいです。今回どうして臨也さんが僕を拉致監禁したのか。臨也さんが寝てる間に考えてみたので、僕の推理を聞いて下さい」
 三好はまた興味無さげにスーツケースを踏む足に体重をかけた。臨也が堪らず呻き声を上げる。それを一瞥してから、三好はすらすらと自身の推理を述べた。
 結論から言えば、それは恐ろしい程に完璧だった。そんなところまでバレてるのか、と臨也は驚愕する。自分では嘘や隠し事は得意だと思っていたが、どうやら間違いだったらしい。或いは三好の洞察力や推理力が上だったのか。
 臨也は三好の推理と共に、この拉致計画に至った道筋を思い返した。


◇◆


 臨也は人間を愛していた。それも全ての人間を平等に。あの日、池袋に彼がやって来るまでは。
 両親の都合で転校してきたのだという少年――三好吉宗。彼は臨也にとって非常に興味深い人間だった。彼の立場や能力や交友関係。その全てが臨也にとって魅力的なものだった。
 初めは他の人間達と同じ、或いはそれよりも少し珍しい玩具くらいにしか思っていなかった少年に、気付けば臨也はそれ以上の感情を抱いていた。世間一般で言うところの愛や恋という感情を。
そんなことは初めてで、臨也自身、自分の変化に納得はしていなかったが、心のどこかで諦めにも似た気持ちもあった。
 しかし今までの人生全てを否定するようで、認めることは憚られた。たまたま彼に今まで以上に興味を持っただけで、他の人間と同じ域からは出ていないのではないか、或いはペットの犬や猫のように相手は自分より下の生物だという認識のもとで可愛がっているのと同じではないのかという疑問も存在した。
 はたして自分は、三好吉宗という少年を、世間一般と同じ意味で愛しているのだろうか。
 それを確かめるべく、臨也は自分と三好を観察することを決めた。他の人間達と同じように、犬や猫のように、恋人のように、三好吉宗という人間を扱うことで。


◇◆


「――というのが動機だと、僕は推測しました」
 目眩が臨也を襲った。ガスのせいだけではない。一体何故彼はそれを知っているのだろう。自分がもがき苦しみ、その果てに出した結論を。
「何で分かるんだって顔ですね。実は、僕には簡単に推理出来たんです。何故だか分かります?」
 分かるわけ無いだろう、と臨也の目が言っている。
 それを確認してから三好は不意にスーツケースから足をどけた。そしてすっと膝を折り、苦しげに肩で息をする臨也の頬に触れる。そしてイヤホンを邪魔だと言わんばかりに臨也の耳から引き抜き、口を開いた。
「僕も、臨也さんと同じだったからですよ」
「……?」
 ――同じ……?
 意味が理解出来ないでいる臨也から、三好は次いで猿轡を外した。急激に肺へと大量の空気が流れ込み、臨也がむせる。その背を撫でながら、三好は初めて笑みを浮かべた。
「僕は、臨也さんが好きだったんです」
 三好の発した言葉の意味が分からず、臨也は上半身を反らせて三好を見上げた。三好はにっこりと笑っている。
「み、よし……くん」
 様々な感情の入り交じった震える声で、臨也は名を呼んだ。それに応えるように三好は再び手を伸ばし、
「――なんて話だったら良かったんですけどね」
 臨也の前髪を掴み、自分と同じ目線の高さへと引っ張り起こした。
 急激に頭が揺れたせいだろう。臨也を酷い吐き気が襲う。胃そのものがまるで異物のように感じられ、苦しさから目に涙が滲んだ。その全ての痛みが脳を揺らし、ぐらぐらと目眩が酷くなる。
 嘲笑にも似た憐憫の笑みを浮かべ、三好は再び淡々と話し始めた。
「僕も臨也さんが好きだったのは本当なんですよ? ただ、僕は臨也さんだけじゃなく皆が、この世界に存在する人間全員が好きだった。だから臨也さんに対する『好き』がどの『好き』か分からなくて悩んでいたんです。そしたら、臨也さんが僕を拉致監禁して人間以下の扱いまでしてくれた。もしも僕が本当に臨也さんを好きならそれも許せるだろうし、まあいいかなって思ってたんですけど」
 先程の三好の推理は推し測ったものではなく、自分の体験に基づくものだったらしい。
 三好は自分と自分を閉じ込めた臨也を観察することで、自分が臨也に対して抱いているものがなんなのかを知ろうとしていたのだ。
「だけど臨也さんが僕を好きだと言った時に、こう思ってしまったんです。僕が好きなのは、僕と同じく全ての人間を愛している臨也さん。僕という一個人を好きな臨也さんじゃない」
 目の前にいる臨也は臨也ではない、とでもいうように、三好は強い口調で言った。前髪を掴む手に力が入る。
「だから僕は復讐することにしたんです。僕の大好きな臨也さんを奪った臨也さんに」
 ぜえぜえと息を荒くしながら、臨也は冷笑を浮かべる三好を見た。しかし、徐々にその輪郭がぼやけていく。目が霞んできているのだ。
 おそらく三好はこのまま臨也を放置し、復讐を完遂するのだろう。
それが分かっていながら、臨也には抵抗する気が起きなかった。先程まであった怒りや憎しみは不思議と消えている。それどころか、このまま殺されてもいいか、とまで思い始めていた。
 ――そうか、やっぱり俺は三好吉宗という人間を愛してしまっていたのか。
 最期の最期に納得してしまった。やってしまったな、と臨也は他人事のように同情した。まさか自分の人生を全否定して終わるとは。
 それでも、残るものはある。三好はこれから先、永遠に臨也を手にかけた罪から逃れられなくなるのだから。ある意味、彼を捕らえ続けられると言っていい。三好はスーツケースよりも頑丈な檻に未来永劫捕らわれ続けるのだ。
 ――やっぱり、閉じ込められるのは君の方だよ。
 臨也は堪らず笑いだす。あまりにおかしくて止まらない。
まだ助かるとでも思っているのか、もしくは気でも触れたのかと三好が不満そうに眉を寄せた。
「何がおかしいんですか」
「俺はね……やっぱり、君が好きだったよ」
「…………っ」
 不意に三好が手を離し、臨也は床に再び転がった。頭を打ち付けた気がしたが、痛みは感じなかった。いよいよ遠くなる意識に、ああこれで終わりかと臨也は目だけを動かして三好を見る。
 ぽたり、と突然臨也の頬に何かが落ちた。三好がこちらを覗き込んでいるようだが、霞んでよく見えない。
「なんで、そんなこと言うんですか」
 三好の声は震えて、うまく聞こえない。自分の耳がおかしくなってしまっているのではないかとも思ったが、それだけが理由ではなさそうだ。
「臨也さんじゃない臨也さんなんて殺そう……そう思ったのに、出来なかった。首を絞めようとしたのに、どうやっても力が入らなかった。最初は僕がまだ臨也さんが、いつか元の臨也さんに戻ってくれるかもしれないと期待してるからだと思った。だから臨也さんが僕を憎むように、酷いことをしてみようと思った。……なのに、なんでそれでもまだ臨也さんは僕が好きだって言うんだ。どうして、僕はそれが嬉しいんだ」
 ぽたぽたと落ちる雫が三好の涙だと気付くのに時間はかからなかった。どうして彼が泣くのか、それが分からず臨也は無意識のうちに困ったような、悲しげな表情を浮かべた。残念ながら彼には起き上がる力も、涙を拭う手も無かったのだが。
「今気付いた。やっぱり僕はあなたが好きだったんだ」
 三好の嗚咽が聞こえるが、瞼が重くて仕方ない。三好君、と唇だけを動かして名前を呼ぶ。
――どうして君が泣くのさ。殺されかけて泣きたいのはこっちなんだよ?
もはやいつもの憎まれ口すら叩けない。それでも何か言わなければ。いつものような軽口さえ出れば、三好も呆れて泣き止んでくれるかもしれないのに。
それだけが心残りとなったまま、臨也の意識は闇へと沈んだ。

◇◆


「……うーん。聞けば聞くほど、随分な臨死体験したんだねぇ」
 岸谷新羅は興味深そうに眼鏡のつるに触れた。
 臨也はあの日のことを――三好吉宗の策にはまり殺されかけた日のことを――思い出し、肩をすくめる。不意を突かれたとはいえ情けない話だ。裏社会の情報屋である自分が、あんな子供に出し抜かれ、危うく死ぬところだったなど。
「最初に三好君が電話してきた時は何事かと思ったよ。もうセルティもびっくりしちゃってさ」
 意識を取り戻すと、臨也は新羅宅で治療を受けていた。新羅によれば、三好がセルティに連絡し、臨也をここへ運んだとのことだ。三好は結局臨也を助けたらしい。
「しかしほとんど後遺症も無くて良かったね。問題無さそうだし、もう来なくていいよ。君が邪魔でセルティと一緒にいる時間が減るからね!」
 新羅はそう言ってにっこりと笑った。何か後遺症があるかもしれないから、と臨也はあれからしばらく通院を余儀無くされたが、どうやら杞憂に終わったようだ。ほとんど、というのは意識を失う直前のことを思い出せないと臨也が言ったからだろう。頭痛と目眩と嘔吐感で意識が朦朧としていたのだから仕方ない。むしろ、それだけで済んだのは奇跡とも言える。
「まあ僕は何もしてないんだけどね。ここに運ばれた時にはしっかり応急処置をした後だったみたいだし、あえて言うなら念のための検査くらいだったかな」
 三好がそれを知っていたのかは定かではないが、彼が用いた毒ガスは解毒剤の存在しない物だった。あえて挙げるなら新鮮な空気くらいだろうか。駆け引きに必要な解毒剤を用意する必要は無く、相手を閉じ込めるだけで容易に生死の選択を迫ることが出来る。そういったことから、三好の計画は急ごしらえにしては舌を巻くものだったと言える。
「それにしても高校生がよくガス室を作ろうなんて思ったもんだ。ていうかよく知ってたね? 塩素ガスの作り方なんて」
 化学の実験か何かで習ったのだろうか、と新羅は首を傾げる。
 塩素系漂白剤と酸性洗剤を混ぜれば塩素ガスが発生して危険――そんなことは洗剤のボトルにだって書いてある。ただ、それが実際にどれほど危険なのか気にかける者はそれほど多くはないだろう。かつて戦時中に化学兵器として使用された程の威力だというのに。三好が塩素ガスについてどの程度の知識を持っていたのかは分からないが、一歩間違えば臨也は今頃笑ってなどいられなかったはずだ。
「漂白剤を見て思い付いたらしいよ。あいにく酸性の洗剤が無かったから、酢の物が食べたいって言ってうちの秘書にお酢を買って来させたみたいなんだよねぇ」
 まさか何気なく言った「食べたいものがあれば頼めばいい」という言葉がこんなことになるとは。やはり三好吉宗という人間は侮れない。
 しかし、実はこの計画について波江は知っていたか感付いていたのではないだろうか、と臨也は考える。彼女は薬品の知識がある上に中々頭が切れる。三好の企みを察しながらも、あえて手を貸していたとしてもおかしくない。自分や弟に害が無ければどんな出来事にも無関心なのが矢霧波江という人物なのだから。
「あれからあの鼻に来る臭いがトラウマになっちゃってさぁ、掃除は全部三好君にやらせてるんだよね。お互い何か盛られたら困るからって料理は一緒に作ることになったんだけどさ」
 ヘラヘラと笑いながら冗談めかした口調で臨也は言う。図太い臨也に限ってまさかそんなことは有り得ないので、体よく三好をこき使う口実だろう。
 しかし、新羅が反応したのはそこではなかった。
「え? 掃除とか料理って……あれ? 三好君ってお正月が終わってまた海外に戻ったんじゃ……」
「言ってなかったっけ? 三好君、こっちに残ることになったんだよ。ていうか俺が残らせたんだけど。とにかく俺んちに一緒に住むことになったから」


◇◆


『ええっ!? 臨也のところに!?』
「あれ? てっきり臨也さんか新羅先生から聞いてると思ってたんですけど……」
『初耳だよ! もしかしたら新羅も知らないんじゃないかな……』
 新羅が臨也の発言に驚愕の表情を浮かべているのとほぼ同時刻、三好から話を聞かされたセルティも驚いたように上半身を仰け反らせていた。
 セルティにとって貴重な友人の三好が残ってくれること自体は嬉しいが、臨也と一緒だというのが不安だらけだ。
『正直私は、君みたいな高校生が臨也なんかと一緒にいるべきじゃないと思うよ』
 裏社会の人間と一緒にいれば、三好もやがて黒に染まってしまう。出来れば臨也とは関わらないで欲しい、とセルティは思っていた。彼女は今一度それをはっきりと伝える。
「じゃあ逆に聞きますけど、新羅先生もセルティさんも裏社会に関わってるし、悪い人を助けてるんだから間接的に悪いことしてますよね。はっきり言って良い人とは言えないです。それを理由に縁を切れって言われて、出来ると思いますか?」
『うっ……それは……』
「そういうことです」
 しかし三好はあっさり反論し、にっこり笑ってみせた。相手を口で丸め込んでしまうところは案外臨也と似ているかもしれない、とセルティは思った。見事なのはそうされても何ら嫌悪を感じず納得させられてしまうところだ。もしかすると説得や交渉に関しては三好の方が臨也より優れているのかもしれない。
「それに僕、セルティさんが思ってるほど良い人間じゃないんです。だから臨也さんが好きなんですけど」
 三好はそう言って照れたように頬をかいた。臨也がどんな人物か知らなければ、幸せそうな三好を心から祝福出来ただろう。
 良い人間じゃない、と三好は言うが、セルティにはそうは思えない。少なくとも臨也と比べれば天と地以上の差がある。だというのにそれが何故臨也に繋がるのか。セルティは思ったままをPDAに入力して見せた。
「……僕と臨也さんは似てるんです」
 少し躊躇ったようだが、三好は言うことを選んだようだ。苦笑を浮かべ、セルティの疑問に答える。
「子供の頃から僕は転校ばかりで、新しい学校で仲間外れにされないように必死でした。そのせいか気付いたら相手を――人間を観察するようになっていたんです。相手の好むものを察知して、いかに上手く立ち回ってそこに自分を当てはめるか、その上僕がそうしてると気付かれないようにするか。……もうそこまで来たら恋愛ゲームみたいな感覚で。人間は星の数ほどいるし、それぞれ考えてることが違うからその攻略法も一人ひとり違って面白くて。あとは臨也さんと同じです。人間を見るのが楽しくて仕方がなくなってました」
 まさかそんなことが、とセルティは驚いた様子だった。自分が初めて会った時から感じていた親しみやすさは、全て三好の計算によるものだったということだ。
 確かに臨也と似ているかもしれないが、それを聞いても両者に対する評価が違うのは、やはり日頃の行いとしか言いようがない。
「だから僕は、今まで出会った人とはまるで違う、それどころか自分にそっくりな臨也さんに興味を持った。多分臨也さんも同じだったと思います」
 三好は何の感情も込めず、ただ事実だけを淡々と話しているように思える。だがセルティはその言葉の裏に、何やら暗い影のようなものを感じた。セルティがそこに触れようとする前に、三好が自ら何か吹っ切れたような顔で笑う。
「僕はそう思っていたから、臨也さんが僕を好きだと言った時に裏切られたように感じたんです。それじゃ今までの人間と同じじゃないか、って。……でも、結局気付いたんです。臨也さんが聞いたら否定すると思うけど、僕も臨也さんも寂しがり屋なんですよ。例えば自分が相手を観察して十まで理解したって、大抵の相手はせいぜい二か三くらいまでしかこっちを見てくれない。見てくれたとしても、それはその人にとって都合のいい人間の枠にこっちを当てはめてるに過ぎない。だから全部を受け入れて、同じくらい全力で自分を見てくれる人がいると嬉しいんです。だから僕は僕を全力で観察してくれる臨也さんが好きなんです」
 それがどういう意味の好きかは置いといて、と三好は控えめに付け足す。セルティも納得はしたが、完全に理解出来たとは言い難い。おそらく、その孤独と幸福は二人にしか分からないだろう。
 それでも三好の笑顔は幸せそうで、セルティはそれ以上何も言えずに溜め息を吐くような仕草をした。
『うん、分かった。私はもう何も言わない!』
 どうせ何を言っても三好の気持ちを変えることなど出来ないだろう。自分の新羅に対する気持ちと同じように。
 しかしセルティは最後に、もう一つだけ念を押した。
『言わなくても分かってると思うけど、もう二度とあんなことしちゃ駄目だよ。一歩間違えたら臨也どころか三好君まで大変なことになってたんだから。絶対に危ないことはしないって約束して』
 三好は当然だと言わんばかりに頷く。意味合いはどうあれ臨也が好きだと認めたのだから、そんなことをする理由はもう存在しない。
 セルティがヘルメットを傾けて頷き返す。もうあんな事件は起こさないだろう、と納得したようだ。
「……でも、先に僕を拉致監禁したのは臨也さんですよね? この場合ってどっちが悪いんでしょう」
 せっかく綺麗にまとまりかけたところを、眉を寄せた三好がぶち壊す。そういえば元はといえば臨也が三好を拉致したりなどしなければこんなことは起こらなかったのだ。三好の行動はある意味正当防衛とも言える。
『うーん……』
 やっぱり臨也の自業自得かもしれない。セルティはなんともばつが悪そうに、PDAを入力する手を止めてしまった。


◇◆


 セルティが新羅に帰宅する旨をメールで告げると、今臨也がいるから少し時間を潰しておいで、と返信があった。今日も例の検査だろう。
「え、臨也さん来てるんですか?」
 臨也来てるんだね、と話を振ると、三好はきょとんと目を丸くしてみせた。一緒に住んでいるはずなのに三好は知らなかったようだ。臨也がわざと伝えなかったのか、三好が無関心だったのか。どちらも正解だというのだから、二人の関係はなんなんだろうとセルティは首を傾げたくなる。
 どうせなら一緒に帰ったら、と提案すると三好は意外と素直に頷いた。まるっきり関心が無いというわけでもないらしい。それに三好が一緒なら、万が一静雄と出会ってもなんとか時間を稼げるかもしれない。
 ――鉢合わせるだけならまだしも、二人が一緒に住んでるなんて静雄が知ったら……想像したくもないな……。
 また一つ苦労が増えそうだ。セルティはひとまず嫌な想像を振り切り、三好にバイクの後ろに乗るよう勧めた。


◇◆


「お帰りセルティ! 今日もお疲れ様! ……あれ、三好君いらっしゃい」
 三好がドアを開けると、セルティ一人だと思ったらしい新羅が嬉々として出迎えてくれた。そのテンションの落差に、セルティさんだけじゃなくてすみません、と思わず三好は謝りそうになる。
「どうしたの三好君。シズちゃんに追いかけられて怪我でもした?」
 新羅に続き、臨也も二人を出迎えに現れる。臨也は三好がここに来るとは思っていなかったようだ。もしかすると彼も同じく、三好が池袋に来ていることすら知らなかったのかもしれない。
「臨也さんと一緒にしないで下さい。迎えに来てあげただけです」
「わざわざ俺を? それはご苦労様。そんなに俺と一緒にいたいんだ?」
「臨也さんが余計なことしないように監視したいだけです」
 先程までにこにこ笑っていたはずの三好が顔を歪め、急に辛辣になる。セルティの知る普段の三好とはまるで違っていて、同一人物なのかとセルティが驚くほどだ。三好は相手に気に入られるようにしていると言っていたので、もしかするとこちらが素なのかもしれない。
 口の立つ二人だ。このまま喧嘩になりはしないかと、セルティはひやひやしながら様子を窺った。
「それにしても三好君ってさぁ、俺のこと大好きだよね。結局俺を助けて生かしてるんだから」
「だって簡単に殺したら復讐にならないじゃないですか。そういう臨也さんこそ、自分がなんて言ったか覚えてます? 死ぬ直前なのに、自分を殺そうとしてる相手に好きだって言ったんですよ。どれだけマゾいんですか」
 さっきはあんなに幸せそうに「臨也が好きだ」と言っていたのに、これはどうしたことか。本当に三好は臨也が好きなのだろうか。唖然としていたセルティだったが、会話を聞いているうちに違和感が生まれる。話の内容は些か物騒だというのに、その本質はまるで違うような。
「そういえば三好君。新羅がもうガスの後遺症は心配無いってさ」
「そうですか、それは残念です」
「そうだねえ、もしも俺に障害の一つでも残ったら一生かけて償ってもらうつもりだったんだけど」
「そうなったら僕も生かさず殺さず、臨也さんに一生かけて復讐出来たんですけど」
「ふうん、面白いことを言うね。だけど三好君、今回のことで俺は心的外傷を負ったわけだ。ある意味これは後遺症かもしれないよ。そこはちゃんと賠償してくれるのかな?」
「お詫びにずっとその傷を治らないようにつつき続けますよ」
 ――うん?
 だんだんと違和感が大きくなり、その正体が分かった瞬間、セルティは呆れ返ることになる。隣で新羅も同じように呆れているようだ。
 そう、これは口喧嘩でもなんでもない。
「……君達がイチャイチャするのは勝手だけど、今後は僕とセルティを巻き込まないで欲しいな」
 人んちの玄関先で何やってるんだ、とセルティが入力したのとほぼ同時に、新羅から至極最もな呟きが漏れた。



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