!注意!
この文章が書かれたのは2012/01/08です。
また、この文章に登場する内容は危険なので絶対に真似しないでください。





NaClO + 2HCl → NaCl + H2O + Cl2

◇◆


 がたん、と何かに手をぶつけた衝撃で三好吉宗は目を覚ました。
 まだ半分眠りの中にいる頭が「どうせ壁だろう、寝てしまえ」と告げる。しかしそれにしてはおかしい。手を軽くぶつけただけなのに、まるで部屋全体にその衝撃が響いたように感じたからだ。
 もう一度、三好は壁らしきものを軽く叩いてみた。部屋全体に震動が伝わり、身体が揺れる。一体これはどうしたことか。
 そこで三好は、自分が寝ているのが自室のベッドではないことに気付いた。同時に三好の意識は完全に覚醒する。
 ――これは……。
 三好は壁だと思っていた部分を手でなぞった。この空間には覚えがある。やけに固く、狭く、窮屈な空間。間違い無い、これは。
 ――……スーツケースだ。


◇◆


 どうして自分はこんなところにいるのだろう。三好は意識を失う前の、最後の記憶を手繰り寄せる。
 三好は年末年始ということで両親に許可を取り、池袋に戻ってきていた。久しぶりに会った友人達と別れ、一人で滞在中のホテルに向かったところまでは覚えている。その後自分はどうしたのだろうか。
 ――……っ。
 ズキンと頭が痛み、三好は顔を歪めた。
 その痛みで、帰り道で薬品を嗅がされたか、或いは頭を殴られたかで意識を失ったのだと気付く。そうして自分はこの中に閉じ込められ、拉致されたというところか。
 三好は狭いスーツケースの中で、なんとか助けを呼ぼうとスマートフォンを探す。しかしそんなものを犯人が持たせておくはずがなく、ポケットの中は当然空だった。
 文字通り、手も足も出ない状況に三好は眉をひそめる。普通ならばもう少し狼狽してもよかったが、三好は冷静で余裕すらあった。どうせ慌てたところでどうにもならない、と思っていたからだ。不本意ながらスーツケースに閉じ込められるのに慣れていたせいもある。
 ――……足音?
 そんな特殊な体験をしたからこそ、三好はその音に気付いたのかもしれない。
 スーツケースの外から僅かに聞こえたそれは、確かに人間の足音だった。すぐ傍に自分を拉致した人間がいる。
 三好は息を潜め、聴覚に神経を集中した。或いは犯人について何か分かるかもしれないと考えたからだ。その為には向こうに目を覚ましたことを知られるのは思わしくない。まるで本当に眠っているように目を閉じながら、三好は僅かな音を聞き取ろうとした。
 足音はひとつ、ほぼ同じペース。おそらく単独犯か、現在近くに仲間はいないと推測出来る。何やら忙しなく少し歩いては止まり、再び僅かに移動しているようだ。まるで同じ場所を何度も往復するかのように。
 一体何をしているんだろう。三好が警戒し、更に音を聞こうと身じろぎした時だった。
 ピピピピッ!
 突如鳴り響く甲高い音。耳に神経を集中していた三好は思わず飛び上がりそうになる。
 犯人の足音がし、音はすぐに止んだ。犯人が音を止めたと見て間違い無さそうだ。
 ――あれは……アラームか何かの音だ。
 すぐに冷静さを取り戻した三好は、その音の正体を考察する。犯人の足音が音の方へ近付き、すぐに音が止まった。このことから、時計のアラームなどが設定されており、それを止めたと考えられる。スマートフォンの無い三好に現在の時刻は分からないが、犯人にとっては何か意味がある時刻なのだろう。
 しかし、今は何時だろうか。三好にあまり眠っていた覚えは無い。まさか丸一日意識が無かった、ということはないだろう。友人と別れたのが夕方だとすれば、まだその日の夜か、最悪翌日の朝といったところか。まだ友人に会う予定があったのに、どうやって連絡しよう。
 そんな風に現在時刻について考えていた三好は気付かなかった。いや、気付いたとしても対処など出来なかっただろう。
「ねえ、今何時だと思う?」
 先程とはまるで別人のように気配を消した足音が、スーツケースへと近付くことを。
「今のアラームはさあ、さすがに起きるだろうって時間の目安にセットしてあったんだよね。そうじゃなくても君のことだ、もっと早く起きててもおかしくない」
 パチンと何かが外れるような音がして、突如スーツケースが揺れた。中に響いた衝撃と音から、三好はスーツケースを殴るか蹴るか、とにかく何か力を加えられたのだと知る。
「……っ!」
 先に聞こえた音はどうやら、スーツケースのロックを解除する音だったらしい。バランスを崩したスーツケースの蓋が呆気なく開き、三好は外へと投げ出された。
「ほら、やっぱり狸寝入りだったんだろう? それともまさか、今の今まで涎垂らして寝てました、なんて言わないよねぇ?」
 三好が最初に見た風景。そこは、何も無い部屋だった。机と椅子とキッチンがあるだけの殺風景な部屋。向こうに玄関らしきものが見えるところから、ワンルームの部屋らしい。
 三好は蛍光灯に眩む目を押さえながら、冷たい床から起き上がり、声の主を見上げる。
 霞んだ真っ白の視界の中、スーツケースの中に広がっていたものと同じ、闇色を纏った男だけがやけにはっきりと見えた。
「おはよう、三好吉宗君!」
 男は――折原臨也はそう言って親しげに手を軽く挙げてみせた。



◇◆


 三好は閉口した。目の前に広がる現実と、口の前に差し出された誘拐犯の手料理に。
「ほら、そんな顔してないで早く食べなよ。それとも、嫌いな物でも入ってたかな?」
 そんな三好を見て、誘拐犯こと臨也はニヤニヤと笑った。三好の反応が思っていた通りのものだったのだろう。
 先程の足音は臨也が料理をする音だったようだ。そうして出来上がった温かいスープが三好の前に置かれている。惜しむらくはそれが臨也の作ったものだということだ。そうでなければ喜んで食べたのに、と三好が思う程に美味しそうなスープである。
「俺が優しくしてあげてる間に食べた方がいいと思うよ? ……だって君、一人じゃ食べられないだろう?」
 臨也の言葉に、三好は歯噛みした。手首に巻かれたヒモが痛む。
 スーツケースから出されたと同時に、三好は両手両足を縛られ、自由を奪われた。眠っている間にそうしなかったのは、抵抗を阻止するというよりも屈辱を与え抵抗する気力を奪うことが目的だからだろう。その証拠に、臨也は暴れる三好をわざわざ抱き上げて椅子の上まで運んだ。三好にとっては屈辱以外の何物でもない。
 そして今度は楽しげに笑いながら、まるでおままごとのように三好に料理を食べさせようとしている。
 臨也が三好を拉致した目的は分からないが、少なくとも三好に対し恥辱の限りを尽くそうとしていることだけは確かだ。そうと分かれば尚更三好には口を開けることなど出来ない。
「……ふうん、そんなに嫌なら仕方ないね」
 頑なに拒否する三好を一瞥し、臨也は溜め息を吐いた。そしてようやく三好の口元に持っていったスプーンを下ろす。
 やっと諦めたのか、と三好が僅かに緊張を弛めた瞬間だった。
 突然臨也が立ち上がったと思えば、ガタンと派手な音がして、三好は床に転がっていた。椅子を蹴られたのだ、と三好は冷静に現状を把握する。この状況をあっさり飲み込めたのは、床に転がるのが今日二度目だったせいもあるだろう。
 両手を後ろで縛られた状態では起き上がるのもままならない。三好に出来るのは身をよじることだけだ。
「はい」
 三好と同じ目線に屈んだ臨也が、にっこりと微笑みながら何かを三好の前に置いた。そしてまるで犬を可愛がるように三好の頭を撫でる。
「食べなよ、自分で」
 それは、先程のスープだった。
 三好は表情を歪め、嫌悪感を露にする。またも期待通りの反応だったのか臨也は満足そうだ。
「そうそう、今が何時だか教えてあげてなかったね。夜中の一時だよ。そんな時間にわざわざ夕飯を作ってあげる俺の優しさに感謝して食べるんだよ?」
 まさかとは思ったが、やはりこれは犬や猫のように食えということらしい。
「俺はもう寝るから、三好君も早く寝るようにね。じゃあおやすみー」
 臨也は今日一番の明るい笑顔で三好の頭を再度撫でた。そして、ふざけるなと睨み付ける三好を完全に放置し、外へと出てしまった。
「…………」
 臨也の気配が完全に消えるのを確認してから、三好は舌打ちをもらした。当然、この状況で食事など取るわけがない。無視してさっさと逃げ出そうと三好は不自由な手足で這って玄関へと向かった。
「……なんだこれ……」
 ようやくたどり着いた玄関でドアノブを見上げ、三好は目を見開く。ドアノブの上に存在するはずの鍵が無い。いや、正確には鍵穴が付いている。つまりこの部屋は外からしか、或いは外からも中からも鍵を使わなければ開かないようになっているということだ。その用意周到さはさすが臨也というべきか。
 部屋は物色するまでもなく、助けを呼べそうなものは存在しない。せめて調理器具が残っていれば武器になっただろうが、臨也は全て手を伸ばさなければ届かない位置に片付けてしまったようだ。立つことすらままならない三好にはどうやっても届かない。
 念のため窓の外も見たが、飛び降りられる高さでは無さそうだ。しかも外の風景には人気が無く、閑散としている。助けを呼んでも気付く人間はいないだろう。
 つまり三好には、ここから逃げ出す手段は存在しないということになる。三好は落胆したように座り込んだ。相手はあの臨也だ。早く逃げなければ、何が起こるか分からない。
 ――臨也さんは、僕をペットか何かの代わりに飼うつもりだろうか。
 だとすれば、ここはきっと犬小屋だろう。この状況で出来ることなどひとつも無く、三好は仕方なく床に転がり、目を閉じた。


◇◆


「……ん……?」
 次に三好が目を覚ますと、そこはまた暗闇だった。昨日と違うことといえば、座った体勢ではなく横向きに寝ていたことと、柔らかい毛布のようなものが掛けられていたことだろう。
 三好が天井らしき部分を縛られたままの手の代わりに肩で押すと、それは簡単に開いた。外に広がるのは昨日と同じ風景、そして自分が寝ていたのはスーツケース。簡単に開いたのは鍵がかけられていなかったからのようだ。
 しかし、おかしい。昨日三好が眠ったのは床だったはずだ。こんな毛布も部屋には無かった。何故自分はスーツケースの中で眠っていたのだろう。
 そんなことは考えるまでもない。三好を移動させ、ついでに毛布をかけた上でスーツケースに詰め込む人間など一人しかいない。
「あれ、おはよう」
 椅子に座っていた臨也が三好の方を向く。一体いつから居たのだろう。そしていつ三好を運んだのだろう。
 三好は警戒しながらも、無愛想な声で挨拶を返した。
「床なんかで寝たら風邪ひくよ?」
「やっぱり臨也さんが運んだんですか」
「当たり前だよ。もしも君が寝込んだりしたら困るからね」
 こちらから聞く前に、臨也があっさり自白する。
「……どうして困るんですか?」
 しかし、三好は僅かに引っ掛かるものを感じ、聞き返した。
 臨也は何故か驚いたようだった。だがすぐにいつも通りの掴み所の無い笑みを浮かべてみせる。
「だって君が寝込んだらつまらないじゃないか。俺は君の反応を観察するためにここに連れてきたんだよ? なのに君が熱を出してそれが出来なくなったら、俺には何一つメリットが無い」
 そうですか、と三好は呆れたように返事をした。やはり折原臨也とはこういう人間なのだ。
「分かったら早速朝御飯にしようか。夕飯、一口も食べてなかったからお腹すいてるんじゃない?」
 臨也は勝手に決め付け、さっさとワンルームの狭いキッチンの前に立ち、三好に背を向けてしまった。その態度が三好にはどこか釈然としない。彼にしては、あまりにも不自然だ。
 ――反応の観察なんて、僕が熱を出してたって出来るじゃないか。それどころか、普段とは違う様子や反応を見ることだって出来るのに。……臨也さんは、何を企んでるんだ?
 三好は臨也の不自然な言葉の裏を探る。臨也が三好を拉致したのは観察するためだけではなく、何か別の目的を隠しているのではないだろうか。
 三好は納得がいかないというように臨也の背中を見た。臨也はまるでそれ以上の会話や追及を拒絶しているようにも感じる。その背中に阻まれ、新たに生じた疑問について遂に三好は聞くことが出来なかった。


◇◆


 後にして思えば最初の対応がまずかったのだろう。臨也はあれ以降、床に食事を置いて出してきた。それも、中途半端に食べづらいものばかりを。朝食にはスクランブルエッグ、昼食にはシーフードグラタンが出された。もちろん三好は口をつけなかったが。
「はい、お待ちどうさま」
「…………」
 床に座ったままの三好は黙って眉を寄せ、臨也を見上げた。目の前に夕飯として置かれたのは分厚いステーキだ。丸一日食事を取っていない三好を、豊かな風味が容赦無くつつく。
「和牛のステーキなんて破格の対応じゃないか、喜びなよ。それに、もう丸一日何も食べてないんだろう?」
 三好の態度が心外だとでもいうように、臨也は肩をすくめてみせた。それを見た三好が更に顔を歪める。
 しばらく二人は無言で互いを見ていたが、不意に臨也が三好へと手を伸ばした。手は三好の頭を撫でる。縛られてさえいなければ、そうなる前に三好がはたき落としていただろう。
 臨也はしばらくそうしていたが、不意にぴたりと手を止め、思い出したように言った。
「……そうそう。悪いけど明日、どうしても抜けられない仕事があってね。代わりに波江さんが来てくれることになってるから」
「波江さんが?」
 臨也の秘書、矢霧波江は三好もよく知る人物だ。彼女は三好のクラスメイトの姉で、よく三好に弟の様子を聞いてくる。彼女であれば三好を、少なくとも人間扱いするだろう。
「明日は一日居てもらえると思うから、食べたいものとか何かあったら波江さんに頼むといいよ。……でも、彼女に頼んで逃がしてもらおうなんて考えないようにね。どうなっても知らないよ? 誰が、とは言わないけど」
 最後に悪魔のような言葉を付け加え、臨也は笑った。
 おそらくそれは彼女の弟のことだと三好は推測した。自分にとっても彼は友人で、人質の価値は十分にある。
「じゃあね、三好君。ちゃんとご飯食べるんだよ」
 まるで三好が理解したのを見計らうように、臨也は立ち上がった。ついでに最後の嫌がらせとばかりに、三好の髪にそっとキスを贈る。
「!?」
 三好が驚いたように身を退く。しかしその反応は当然、臨也の期待通りだ。三好もすぐにそれに気付き、動揺を隠そうとする。
「……なにするんですか」
「やだなあ、ただの挨拶だよ?」
「…………」
 三好は再び無言で臨也を睨む。しかし臨也は可笑しそうに笑うと、さっさと出て行ってしまった。


◇◆


 ドアの開く音に三好が気付いたのは、運が良かったからとしかいいようがない。それほどに些細な音、そして完璧な気配の消し方だった。
 ――臨也さん?
 三好がうっすらと目を開けると、暗闇にぼんやりと足らしきものが見えた。
 時計が無いため現在時刻は分からないが、部屋の暗さからまだ夜中だということだけは窺える。そんな時間に一体何をしに来たのかと、三好は狸寝入りを続けながら気配を探った。
「……三好君」
 予想通りの声が降ってくる。臨也の声だ。
 今日も三好は床で寝ているが、わざわざスーツケースに詰め直すためにやって来たのだろうか。それだけのためにこんな夜中に現れたのか。三好は笑うべきか怒るべきか、複雑な気分になった。
 しかしそれが目的ならば黙って従うわけがない。眠気を我慢してでも今起きて抵抗する方がマシだ。そう結論付けた三好が目を開け、起き上がろうとした時だった。
 ――……え?
 臨也に頭を撫でられたのは。それも、昼間にやってみせたような小馬鹿にしたものではなく、驚く程に優しい手で。それは本当に臨也によるものなのかと三好が疑う程だった。
「まったく、俺は何をやってるんだろうね?」
 三好の心を代弁するかのように、臨也が口を開く。その口調からは自嘲が感じられた。
「俺は人間を愛してる。例外無く全てを平等に。……なのに、なんだろうね、この有り様は」
 臨也の雰囲気がどこか険しくなり、手が止まった。
 一体臨也が何を言っているのか、三好にはまったく理解出来ない。しかし臨也が何らかの悩みや不満を抱いていることだけは伝わってきた。
「俺は自分をそういう人間だと思ってたけど、期待外れだった……ってことかな。全人類を平等に愛することも出来ないなんて」
 いや、そんな比ではない。それは悲愴さすら感じる声だった。
 三好でなくともにわかには信じがたいことだ。あの臨也がこんなにも辛い声で何かを語るなど。あの、いつも自信に満ち溢れた物言いをする臨也が。
「それもこれも全部、君のせいだよ。ねえ三好君?」
 突然名を呼ばれ、三好は思わず反応しそうになった。
 何故いきなり自分の名が出るのか、狸寝入りが見破られたのか。三好は身構えたが、すぐに杞憂だったと気付く。臨也がまた頭を撫でながら、話を続けたからだ。
「君が来なかったら、俺はいつまでも俺のままでいられたのに。君が君じゃなかったら、俺はただ君を観察するだけで良かったのに。君さえいなかったら、全てがうまく進んだのに」
 どうしてそんなことを言われなければならないんだ。存在を否定するような言葉ばかりを並べられ、三好は怒りがこみ上げてきた。
 同時に三好は臨也の目的に気付く。自分が計画の邪魔になりそうだから、臨也は自分を拉致したのではないだろうか、と。それならば三好が邪魔だと言うのは筋が通る。
 しかし、三好の推理は否定された。
「……君さえいなければ、俺が他の人間達より、三好吉宗という人間を愛するようなことは起きなかったのにね」
 胸が締め付けられるような声で、臨也が紡いだ言葉によって。
 聞き間違いや自惚れでなければ、それは確かに愛の告白の類いだった。いつもの嫌がらせかとも思ったが、こんな夜中に仕掛ける理由が無い。
 ――この人は一体何を考えてるんだ。
 三好の中に、驚きと同時に、何かの感情がさざめいた。恐怖ではない。臨也の言葉に反応し、今まで自分でも知らなかった感情が表面化する。
 ――なんだ、これ……どうして僕は……。
 そんな感情がどこから現れたのか、三好には皆目見当がつかない。ただ混乱したまま、寝たふりを続けることしか出来なかった。

◇◆


「はい。面倒だから自分で食べてちょうだい」
 あっさりと三好の拘束を解き、波江はサラダと目玉焼きをテーブルに置いた。三好はまじまじとその様子を見る。手足が自由になることや食事を取ること――つまり普通の扱いを受け、人間らしい生活をするのは久しぶりだったからだ。
 ほどいていいんですか、と念のために三好は波江に問う。波江は三好が逃げようがどうでもいいようだった。彼女も臨也に脅されているのかと思ったが、どうやら違うらしい。三好にしっかりと釘を刺している時点で彼女を脅迫する必要は無い、ということだろうか。もっとも、波江を敵に回すようなことを臨也がするとは思えないのだが。
「あの、波江さん」
「何?」
 椅子に座りながら、おずおずと三好が口を開く。三好の質問は当然臨也についてだ。
 三好の頭に昨夜の出来事が何度も再生される。それが三好の勘違いや夢であれば、そちらの方が良かったのかもしれない。しかし何度思い出しても、それは確かに現実だった。
「……臨也さんは、どうして僕をこんなところに閉じ込めてるんでしょう」
 波江がその答えを知っているとは思えなかったが、それでも三好は聞かずにはいられなかった。この理不尽な事件の発端は一体何だったのか。
「さあ。そんなこと、私が知るわけないじゃない」
 波江から返ってきたのはある意味予想通りの答えだった。彼女は何も知らないし、興味も無い。臨也の秘書という立場だが、彼女はこの事件とは完全に無関係だ。
「あいつのことだから、どうせ人間観察の一環だとか、そんなところじゃないかしら」
 やはり、臨也を知る者ならそう捉えるだろう。自分も昨夜の出来事さえなければそれ以外考えもしなかった。臨也があんなことさえ言わなければ。
 三好は波江に礼を言い、朝食を口に運んだ。まったく何も食べていなかったせいか、あっという間に平らげる。
 臨也の命令か、彼女の好意かは分からないが、波江は三好の食べ終えたばかりの食器を黙々と洗い、シンクの横にあったプラスチックの籠に入れた。何か鼻につく臭いがするのは、その中に漂白剤が入っているせいのようだ。それが三好の目に止まったのは、臨也が皿を出しっぱなしにせずに、わざわざ拭いて上の戸棚に入れていたからだろう。しかし皿などがいくつか増えたくらいでは部屋の殺風景さは変わるはずもない。
 ――……あ!
 何の気なしに食器を洗う波江の背を見ていた三好の脳裏に何かが閃く。それは現状の打開策――この状態から脱出する方法だった。
 しかしそれを実行するのは躊躇われた。その実行には様々なリスクが伴うからだ。だが今日を逃せば次はいつチャンスが訪れるか分からないのも事実である。
 三好が迷っている間に波江は片付けを終えた。どうやら出掛けるようだ。今日はいくつも別の仕事を押し付けられているのだと波江は愚痴を言う。
「じゃあまたお昼に来るわね」
 それでも昼食は律儀に用意してくれるらしい。さっさと部屋を出ようとする波江を、三好は慌てて呼び止めた。
 実行出来るのは今しか無い。現状を、感情を、全てを理解し打開するには。三好はぐっと拳を握る。
「あの、波江さん。買ってきて欲しいものがあるんです。それと……夕飯のリクエスト、してもいいですか?」
 一体何を言い出すのか、と波江は呆れたようだった。拉致監禁されている人間が平然と夕飯のリクエストをしようというのだから当たり前だ。
 しょうがないわね、と振り向いた波江に、三好は礼を言いながら満面の笑みを返す。三好からは、既に迷いが消えていた。


◇◆


 翌日の昼前に、また臨也が現れた。これからまたあの人間以下の生活が始まるのだろう。どうせならあのままずっと波江が来てくれれば良かったのに、と三好は毒づく。対照的に、臨也は何故かすこぶる機嫌がいい。
「おはよう三好君。一日俺に会えなくて寂しかったんじゃない?」
 臨也は足取り軽く三好に近付く。昨日の仕事が上手くいったのだろうか。しかしそんなことは三好には関係無い。
「それは臨也さんの方では」
「まさか! 大体さあ、俺が君に会えないくらいで寂しがると思う?」
 憎まれ口をたたくと、臨也はすぐに反論してきた。そして膝を折り、まるで三好をあやすように頭を撫でる。
 皮肉を言ったわりに、三好を撫でる手にはどこか違和感がある。普段の臨也とはまるで違う、あの真夜中に現れた時に感じたものと同じような。
「ねえ三好君、お昼ご飯は何がいい?」
「昨日夕食が和食だったので洋食がいいです」
 食べるかはともかくとして三好が素直に答えると、臨也は思い出したように頷いた。
「ああ、波江さんが言ってたな。鯖の味噌煮とキュウリの酢の物と味噌汁だっけ? 随分渋いのリクエストするんだねぇ。俺の作った料理はそんなに気に入らなかったのかな?」
 臨也が上げたメニューは、昨日三好が波江に頼んで作ってもらったものだ。波江はぶつぶつ言いながらもちゃんとリクエストに応えてくれた。
 しかし今日はやけに受け答えが素直だ、と臨也が疑問を持つ。三好がこの環境に順応してきたということだろうか。それとも、昨日波江と会ってなんらかの変化があったか。臨也はそれを確かめるように、先程から気になっていたことを口にした。
「それより、今日は随分お行儀がいいんだね。大人しくスーツケースに入ってるなんて。波江さんが躾けてくれたのかな?」
 臨也に無理矢理押し込まれた時以外、三好は自分でそこに入ることはしなかった。犬や猫ではないのだから当たり前だ。
 なのに、今日は何故か三好が大人しくスーツケースの中に収まっている。臨也が来る前からだ。つまり三好は昨晩自らここに入って眠ったということになる。
「――臨也さんは、僕を閉じ込めてるんですよね」
 三好から返ってきたのは、そんな的外れな言葉だった。答えにすらなっていない。
 今更そんなことを確認されるとは思わなかったのだろう。臨也は訳が分からないという様子で間の抜けた声を出した。そして顔を歪めたまま、当たり前だと三好の言葉を肯定する。
「言い方が悪かったので言い直します。臨也さんは、僕を閉じ込めてると思ってるんですよね」
 訂正後の言葉も、臨也は当然肯定する。
 訂正前と何が違うというのか。もしかすると三好は「自分はいつでも逃げられる」とでも思っているのではないだろうか。
「まさかここから逃げられるだとか、そんなつまらないことは言わないよね? 確かに俺から鍵を奪って逃げることは出来るかもしれない。だけど外部に連絡する手段すらないただの平凡な高校生の君が、例えば誰かに助けを求めるまでの僅かな時間でも、本当に俺から逃げ切れると思う? 本気で俺を動けないくらい痛め付けるか、殺すくらいしないと無理だとは思わない?」
 臨也は馬鹿にしたように笑った。
 スマートフォンも土地勘も無い三好では、外に逃げたところで再び臨也に捕まるだけだろう。もちろんそれが分からないほど三好は馬鹿ではない。
「僕が言いたいのはそんなことじゃありません。臨也さんは僕を閉じ込めてると思ってる。……でも、実は逆なんです。僕が臨也さんを閉じ込めてるんです」
 三好は毅然とした態度で、臨也にそう述べた。臨也はポカンとして目を瞬かせている。
 臨也が三好を監禁している、それは紛れもない事実だ。しかし三好は逆だという。
 聞き返した臨也に向かって勝ち誇ったように三好は笑い、縛られた手で器用にスーツケースの蓋を閉めた。スーツケースは三好の身体に支えられ、半開きの状態になる。その状態で三好が何を言うのかと黙って観察している臨也に対し、スーツケースの中から凛とした声で三好が語る。
「このスーツケースの上と下で、世界は区切られてるんです。僕がいるスーツケースの中の空間と、臨也さんのいる外の空間は別の世界なんです。スーツケースの上から、地球を一周してスーツケースの下までの世界に、僕が臨也さんを閉じ込めてるんです。だから、僕がこうしてスーツケースを閉じれば、臨也さんはスーツケースの外の世界に閉じ込められてしまうんですよ」
 三好がそう言って蓋を閉め、スーツケースの中に閉じ籠るのを見て、臨也はたまらず笑いだした。まさか三好がそんな詭弁を弄するとは。まったく予想外の行動に、臨也は嬉々として立ち上がった。
「いいねえ、その考えは中々面白いよ!」
 室内には臨也の笑い声の他に、鈍い音が響く。立ち上がった臨也がスーツケースを踏みつけた音だ。
「でもさぁ、君の言うスーツケースの中の世界はこの俺のいる世界に干渉出来ないよねえ?」
 三好の反抗的な物言いが気に入らなかったのか、あるいはただ単に三好の反応が見たかったのか、臨也は何度もそれを繰り返した。三好からの反応は無い。中の音や揺れは酷いだろうに悲鳴のひとつも漏らさないとは。臨也はますます力を入れてスーツケースを蹴った。
「…………?」
 三好に何か反応を返させようと躍起になっていた臨也が、不意にぴたりと蹴るのを停止し、目を擦る。突然目に痛みが走ったからだ。ゴミでも入ったのだろう、と初めは大して気にしなかったが、どうも何かがおかしい。喉にも同様に痛みがある。風邪でも引いたのだ、などと楽観視出来るものではない。
「干渉出来ない? ……どうでしょうね」
 ようやく三好から反応が返る。その声は臨也に恐怖するどころか、むしろ嘲笑うかのようなものだった。
 ――……ッ!?
 更に酷い痛みが喉を刺し、気付くと臨也は激しく咳き込んでいた。目と喉に激痛が走る。それだけじゃない。頭痛がして吐きそうだ。
 どこからか酷い臭いがし、臨也の鼻を刺激した。波江が使っていた漂白剤だろう、と思ったがその比ではない。臭気の痛いほどの刺激とは逆に、臨也の意識は徐々に遠ざかっていく。
 ――あれは……。
 朦朧とする意識の中、臨也はスーツケースの後ろにあった物に気が付いた。自分が持ってきた皿――サラダボウルのようだ。中には液体が入っている。臨也の身に起きている異変の原因はこの液体に違いない。
 サラダボウルはまるで計算したかのように、スーツケースを開けると丁度その下に隠れるような位置にある。今まで気付かなかったのはスーツケースが蓋の役割を果たしていたからだろうか。
 臨也は立っていることすら出来ず、床に倒れた。喉が焼けるようだ。これは毒ガスの類いだろうと臨也は瞬時に判断し、片手で口を押さえながら這うようにして窓の方へと近付く。毒ガスへの対処に必要なものは新鮮な空気だ。咳き込み、目も開けられない状態で、臨也はなんとかそれを思い出していた。あのサラダボウルの中の液体がガスを発生させているのだろう。せめてあれから遠ざからなければ。
 唐突に、バタンと何かの音がした。痛みで目の開けられない臨也には推測しか出来なかったが、それは間違いなく三好がスーツケースから出た音だった。手足を縛られているはずなのに、とも思ったがこんな仕掛けを用意するくらいだ。手足を縛るヒモなど簡単に切ることが出来ただろう。自分が部屋に入った時からそうしなかったのは油断を誘うためだろうか。
「――っ!」
 三好が近付く気配を感じた次の瞬間、臨也は脇腹に――おそらく三好に足蹴にされたのだろう――衝撃を受け、再び床に身体を打ち付けた。
「無様に床を転がるのって、どんな気分ですか」
 そんな臨也を罵るように、三好の声が降ってくる。声がくぐもっているのはガスマスクか何かを着けているからだろう。そうでなければこのガスの中に出てこられるはずがない。
 咳き込むたびに喉の痛みは増していく。このまま自分は死んでしまうのだろうか。三好吉宗に殺されてしまうのだろうか。
 走馬灯を見る隙すら与えず、ガスは臨也の意識を奪った。


◇◆


「…………」
 床に転がる臨也を、三好が冷たい目で見下ろす。三好がしているのは正確にはガスマスクではない。ゴーグルと酸素ボンベを使った、簡易的なものだ。昨日波江に用意させたものである。
彼女が不自然だと思わなかったとは考えにくい。おそらく三好が何かを企んでいることに気付いていたのではないだろうか。それでも止めないのだから、臨也は相当嫌われているか、彼女は最後まで無関係な立場を貫き通したいのだろう。
 死んでしまったのか、と三好は臨也を抱き起こす。確かめようと唇に耳を近付けると、臨也はまだか細く呼吸をしていた。しかし危険な状態には代わりなく、虫の息といったところか。
「まだ生きてるのか、しぶといなぁ……」
 ぽつりと呟き、三好は機械にも似た目で臨也を注視した。
 このまま放置すれば間違いなく臨也は死ぬだろう。臨也を置いて部屋を出る、たったそれだけのことであの臨也を殺せるのだ。自分を閉じ込めた人間を、こうもあっさりと。
 ――でも、それはつまらないな。ガスなんかで死ぬなんて。
 どうせなら自分の手で、と三好は臨也の首筋へと手を伸ばした。今の臨也なら力を込めて体重をかければ、子供でも簡単に絞殺出来るだろう。
 三好は優しく臨也の首へと触れる。あとは力を込めるだけだ。
触れた頚動脈から弱弱しい脈動が伝わってくる。この絶体絶命の状況でも必死に生きながらえようとしているのか。まるで生まれたばかりの赤ん坊を相手にするような心持ちで、三好はすっと臨也の首筋を指でなぞった。
「さよなら、臨也さん」
 もはや聞こえていないであろう臨也に告げ、三好は改めて細い首へと手を宛がう。まだ温かい体温を感じ、三好の唇が弧を描いた。

◇◆



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