「ぶ」

角をくるりと曲がった瞬間、臨也は目前の壁のようなものに鼻をぶつけた。
もちろん壁などあるわけがないので、丁度向こうから来た人間にぶつかったことは明らかだ。
歩きながらのメールは危険なので止めましょう。
そんな標語じみた言葉が浮かび、ようやく臨也はPDAに集中していた意識を外に向けた。
別にメールをしていたわけでは無いが、文章を入力していたのだから似たようなものだ。
軽く謝って続きを入力しようと臨也はヘラリと笑って顔を上げる。
ただ、上げる途中から嫌な予感はしていた。
それは顔を上げるにつれ、確信へと変わっていく。
この辺りで、昼間からこんな服を着ているのは、臨也の知る限り一人だけだ。

「いーざーやーくぅうーん?」

うわ。
相手の顔を見たところで、思わず臨也は笑った。
もっとも出会いたくない人物に出会うどころか、あまつさえぶつかってしまうとは。

「やあ偶然だねシズちゃん。
曲がり角でぶつかるなんて、まるで漫画みたいだよねえ」

PDAをポケットにしまい、臨也は空いた手を親しげに上げた。

「じゃあ悪いけど俺、仕事があるからこれで」

その手をそのままヒラヒラと振り、臨也は早足で通り過ぎようとする。
一刻も早くこの場から離れようとしたのだ。
他の相手なら謝った時点で済んでいたかもしれないが、そうはいかなかった。

「まぁー待てよ臨也君よぉー」

ドスの効いた声と同時にフードを掴まれ、臨也は思わず呻いた。
ふと、フードが千切れやしないかとのんきな心配をしてしまう。
服がボロボロになっている人間を、相手が信用するだろうか。
自分の命より服と仕事のことを心配してしまい、他人事のように臨也は笑った。
そしてすぐに取り繕った顔で

「わざわざ引き止めるなんて、シズちゃんってばそんなに俺と喋りたいの?」

などと神経を逆撫でする台詞を吐いた。
シズちゃんこと平和島静雄は、臨也のそういった言動を毛嫌いしている。
もっともその言動こそ臨也の性分なので、どうしようもないことは確かだが。
静雄は空いていた手にくわえていた煙草を持ち、一度紫煙を吐いた。
そして再びくわえ直し、寒気のするような笑みを浮かべた。

「あぁそうだな、今日は手前が一生喋れなくなるまで付き合ってやるよ」

フードを引っ張り、改めて臨也の襟を掴みながら静雄が言う。
静雄はそのまま身体をひねり、乱暴に臨也を壁に押さえつけた。
あーやばいな。
したたかに背中を打った衝撃に息を吐きながら、臨也は心の中で呟いた。
ここまで怒らせてしまってはナイフも使えないだろう。
おまけに後ろには壁がある。
上手く静雄の横をすり抜け、走り抜ける以外に逃げ道は無さそうだ。
そのためには静雄の注意を一瞬でも他に逸らさなければならない。
なかなか難しい問題だ。

「おい」

さてどうしたものか、と作戦を練り始めた臨也の耳元で何かが砕ける音がした。
確認するまでもなく、静雄の振り下ろした拳が壁を砕いた音だ。

「臨也君よぉ、どうやって逃げようか考えてんだよなぁー?」
「あはは、よく知ってるね。
っていうかいつものことだけど器物破損はよくないよシズちゃん」

パラパラとヒビの入ったコンクリートが足元に落ちる。
相変わらず非常識な力だ、と臨也はそれに呆れにも似た感想を抱いた。

「逃がすと思ってんのか?あ?」

低い声で言いながら、静雄は襟を掴む手に力を込める。
振り下ろしたままの拳にも力がいっているのか、臨也の横で壁が再び悲鳴を上げていた。
一刻も早く逃げなければ、まずい。
なんとか隙を作ろうと、臨也は静雄に話しかける。

「そういやシズちゃん、なんかいつもと違うよね。
雰囲気とかさ。
……あ、煙草変えたとか?」
「あぁ?」

臨也が「いつもと違う」と思ったのは本心からで、それを使って会話し、隙を作ろうと試みる。
これで反応を示してくれれば逃げられたのだが、生憎作戦は失敗に終わった。
臨也は仕方なく押し黙ったまま、襟を掴む手と真横にある手を交互に睨む。
どうにかしてこの手から逃れられないものか。

「無駄だっつってんだろぉー、なあいーざーやー?」
「ちょ、シズちゃん、煙草危ないって。
それの温度どれくらいあるか知ってるの?」

力が込もるのに比例して、額がぶつかりそうなほどに近くなった静雄の顔。
臨也は思わず壁にぴたりと手のひらを付け、煙草の火から逃れようとした。
この場から逃げようとしているのに、自ら壁に張り付いている矛盾にため息が出そうになる。

「それにさ、俺これから仕事なんだってば。
服が煙草臭くなるのは嫌だなあ。
せっかく滅多につけない香水まで引っ張り出して――」

香水?
ふと何かに気付いたように、臨也がすっと目を閉じた。
臨也の不可解な行動に、静雄も眉をひそめる。

「……やっぱり。
何が違うのかと思ったら、シズちゃんからいい匂いがする」

目を開け、臨也は人懐っこい笑みを浮かべた。
自分で買ったとは思えないので、おそらくあの上司あたりに貰ったんだろう。
臨也はそうあたりをつけ、改めて静雄を見た。
静雄はこれも臨也の作戦だと警戒しているらしく、まったく会話に乗ってこない。
ああやっぱり駄目か。
臨也はため息をついた。
初めから効くとは思っていなかったが、せっかくのフルスマイルも笑い損だ。

「……いい匂いのするシズちゃん、ってさ。
はっきり言って不気味だよね」
「俺は手前の胡散臭ぇ笑顔の方が不気味だがなぁ」

ようやく本音を漏らした臨也を見て、静雄の額に血管が浮かぶ。
表情こそ笑っているものの、サングラスの奥の目だけは激昂の色が見て取れた。

「似合わない――とは言わないけど、俺は嫌だなあ。
シズちゃんらしくなくて」

臨也はそんなことを「胡散臭ぇ笑顔」で言いながら、今にも首をへし折りそうなほどに怒気を噴出する静雄の口から煙草を奪った。
常人ならば視認出来ないほどの速さだったが、静雄にははっきりと見えていたようだ。
何しやがる、と怒声をあげながら、静雄は壁に付いていた拳を遂に臨也へと振り下ろした。
しかし、煙草に気を取られた分、いつもより一瞬遅れていた。
その一瞬を臨也が見逃すわけがない。
煙草を奪ったのとは逆の手で臨也は何かを取り出し、それを静雄の顔に思い切り吹き付けた。

「なッ!?」

咳き込みながら静雄が飛び退く。
拘束を解かれた臨也は、その隙に静雄から距離を取った。

「っ何しやがる……!」
「残念だけど毒ガスでも催涙スプレーでもない。
ただの香水だよ」

なおも咳き込み、目をこする静雄に向かって臨也がアトマイザーを振る。
臨也の言うように、中身はただの香水だ。
ただし顔に向けて吹き付けたので、確かに香りが強すぎるかもしれない。
臨也はアトマイザーをポケットにしまい、もう片手に持っていた煙草を口に運んだ。
一服したところで顔を歪め、静雄と同じく咳をする。

「まずっ」

よくこんなもの吸えるよね。
臨也はひょいっと足を上げ、靴底で勝手に煙草をもみ消した。
静雄のものだったことなどお構いなしだ。

「シズちゃんなんて、煙草臭いくらいが丁度いいんじゃないの。
それをうつされるのは勘弁して欲しいけど」
「……っ臨也!」
「じゃあねー」

そう言い残すなり、臨也は静雄が捕まえるよりも早く脱兎の如く走り去った。




「逃がしたか……」

静雄は舌打ちをし、臨也の逃げた方向を睨む。
臨也の逃げ足は驚くほど速いのだ。
次会った時こそぶっ殺そう、と静雄は心に誓い、新しい煙草を取り出そうとする。
しかし、そこでふと手を止めた。
大量に吹き付けられた香水の匂いがしたからだ。
こんな状態で煙草を吸っても、味など分かるはずもない。
とっとと帰ってシャワーを浴びよう。
静雄は煙草の箱をポケットに戻し、早足で歩き出した。
動く度に香水が香るのが忌々しい。
まるで臨也が隣をついて来ているようだ、と静雄は思った。
それにしても、こんな香りを選ぶとは、本当に仕事をする気があるんだろうか。
もしかすると今回の取引相手は、臨也にとって絶対に気に入られなければならない重要な相手なのかもしれない。

「…………」

そこまで考えて、静雄は壁を殴った。
先程の威嚇とは違い本気で殴ったので、壁のダメージも桁違いだ。
何をそこまで苛立っているのか、それは静雄本人にも分からない。
ただ、臨也があの香水をつけて歩く姿が気に入らない。
それだけだ。




一方その臨也はというと、静雄を撒いたことを確認し、足を止めていた。
先程逃げ込んだ人気の無い道で臨也はしゃがみこむ。

「あーあ、びっくりした」

ため息をつきながら見つめるそれは、さっき静雄から奪った煙草だ。
臨也はそれを指で弄びながら、語り掛けるように呟く。

「いつもと違うシズちゃんなんて、落ち着いてからかうことも出来ないよねえ」

改めて、臨也は今し方静雄に会った時のことを思い出してみた。
突然ぶつかって驚いたとはいえ、もう少し上手く逃げられたんじゃないだろうか。
それをする余裕が無かったのは静雄が似合わない物をつけていたからだ、と臨也は解釈し、納得した。
なんだ、全部シズちゃんのせいか。
臨也は立ち上がり、肩にかかったままになっていたコンクリートの破片を払った。
そして弄んでいた煙草を握りつぶし、吐き捨てるように言った。

「香水の匂いのするシズちゃんなんて、気に入らないよ」



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