きっと、これは、夢だ。



 折原臨也は、池袋を走っていた。宛があるわけではなく、ましてやバーテン服の男に追われているわけでもない。
 ただ彼は、逃走していた。冷や汗を流しながら、街を駆け、ひたすらに逃れようとしていた。
 ――何が起こっているんだ……!?
 混乱した頭では現実を認識出来ない。臨也は今、この『悪夢』から覚醒する手段を欲していた。



 息を切らせてひたすらに逃げ惑うなんて、こんなことは初めてだった。今まではどんな事態も上手く切り抜けてきたし、これからもそうやって生きていく自信はあった。しかし今はそれを粉々に砕かれてしまった。
 悪態をついている暇など存在しない。『悪夢』は今この瞬間にも臨也を蝕んでいる。この状況から脱するべく、臨也は必死で頭を回転させる。どんなに叩きのめされても結局、彼には幾度も窮地を乗り越えてきた自分の頭脳以外に頼るものは無いのだから。
 ――そうだ、あの男だ。奴に会えばこの『悪夢』も霧散するに違いない。
 臨也は『悪夢』からの覚醒に、いささか乱暴な手段を取ることにした。
 平和島静雄という、自身を忌み嫌い、自身も忌み嫌う存在。屈辱だが、彼に頼る他ない。彼ならばこの『悪夢』から臨也を現実に引き戻すことが出来るだろう。
 臨也は『悪夢』から逃れるために、化物と罵り続けた相手に助けを乞うことを決めた。



 意外と早く、静雄は見つかった。普段ならば早々に立ち去るところだが、臨也は敢えて回り込み、静雄の前に姿を現した。
「やあ、シズちゃん」
 手を借りるにしても、静雄に弱っているところを見せるわけにはいかない。そんな意地から臨也はいつも通りの表情を作った。
 親しげに手を振った臨也に、向こうも気付いたらしい。いつものようにゆらりとこちらに歩いてきた。
 ――あとはシズちゃんがいつも通り、俺に殴りかかっ……
「よぉ、臨也」
 静雄の第一声には、何か違和感があった。臨也はその違和感を敏感に感じ取り、背筋を震わせる。何かがおかしい。
 いや、そんなはずは無い。静雄は今すぐにでも殴りかかってくるはずだ。ぶっ殺す、と叫んで、臨也を追いかけるはずだ。まさか、あの静雄までが、この『悪夢』の住人になってしまったなど、そんなことは。
「――悪かったな」
「……は?」
 臨也は呆けた顔で静雄を見た。
 ――シズちゃんは一体何を言っているんだろう。
 静雄は臨也に向かって頭を下げている。その光景が信じられず、臨也はひきつった笑いを浮かべた。
「どうしたのシズちゃん、気持ち悪いよ。いつもみたいに元気に俺を殺すって言ってごらんよ」
「……確かに俺は手前のことはぶっ殺してえくれぇ嫌いなんだけどよ」
 喧嘩を吹っ掛ける臨也に対し、静雄は頭をかいている。
「今までお前のこと誤解してたんだ。ほんのちょっとだけ見直した。まあほんっ……のちょっとだけどな」
 やめろ、これ以上何も言うな、と念じても静雄の言葉は止まらない。
 そして静雄は、今まで見たこともないような神妙な顔で言った。
「あー……すまねぇ」
 ぐらり、と世界が揺れた。ひどい目眩がする。臨也は怯えた顔も隠さず、いつものように静雄の前から逃げ出した。
 ――まさかあのシズちゃんまで!
 臨也は逃げながら、自分が静雄をある程度評価し、期待していたことに気付いた。あの男ならこんな『悪夢』にも屈するはずがない、と。
 しかし、現実は非情だった。あんなにもデタラメな力を持つ化物すら、この『悪夢』の登場人物に過ぎなかったのだから。



 臨也は逃げ込んだ路地裏で、この『悪夢』の内容を整理した。
 ここから大通りを行く人間を見ていると、まったくいつも通りの日常が広がっている。何ら変わり無い、自分が何年も観察し続けてきた人間達と、池袋の日常。その中で変わってしまったものは、ただ一つだけだ。
 ――折原臨也への認識……とでも言うべきか。
 この『悪夢』の世界では折原臨也という人物の評価が百八十度変わってしまっているようだ。静雄のように臨也を知り、今まで良く思っていなかった者達は皆が評価を改めている。臨也を知らないはずの一般人達は、すれ違う臨也ににっこりと笑いかけてきた。
 まるで臨也が、違う誰か、それも正義のヒーローになってしまったかのような扱いだ。
 臨也とて、自分が今までやってきたことがどちらかといえば悪に属することも分かっていたし、嫌われ者である自覚も当然あった。そのことについてはだからどうした、と思っていた。逆に、自分に向けられた負の感情を観察し、利用したこともある。
 そんな折原臨也という人間が、今、真逆の評価を受けている。
 人々は笑顔で臨也を見た。偉大な人物のように称賛するわけでも、ましてやアイドルのようにサインを求めるわけでもなく、ただ臨也を見て笑った。嘲笑するような悪意のあるものではなく、まるで愛らしい赤ん坊や子犬でも見るような柔和な笑顔で笑った。
 端的に言えば折原臨也は、人間達に笑顔で観察されているのだ。
 今まで観察してきた人間という存在が、今までの臨也を消し去った上、逆に臨也を観察している。その『悪夢』は臨也に屈辱と恐怖を与えた。
 もしも一人や二人ならば臨也は喜んで受け入れ、逆にその相手を観察して楽しんだだろう。しかし、今回は相手が多すぎる。少なくとも、池袋にいる人間全てが相手だ。全員が笑顔を浮かべていることも不自然すぎる。
 ――誰かに仕組まれたのか?
 心当たりはいくつかあった。しかし、それらは全て臨也を疎ましく思っている者ばかりだった。
 もしも奴らが池袋の人間全てを操れるとしたら、まず臨也を消すだろう。そして、その為には臨也を殺したがっていた平和島静雄は利用出来るはずだ。わざわざ静雄や、他の臨也を煙たがっている者達まで操り、臨也に好意を持たせる必要は無い。
 今のところ自分に危害が及んでいないこともあり、臨也には犯人の目的が分からなかった。
 ――いつまでもここにいても仕方ない。
 今日は何かが起こる前に大人しく帰った方がいい。臨也は不気味な程の笑顔達に見送られながら、新宿へと戻って行った。



 臨也は苛立ちを隠さず、机に拳を叩き付けた。
 画面に映っているのはダラーズのサイトだ。そこも既に、折原臨也への認識は書き換えられている。敵はこの中にも紛れ込んでいるようだ。
 しかし、犯人が個人なのか複数なのか、そしてその目的をここから調べるのは不可能だろう。それがダラーズ最大の強みなのだから。
 ――くそっ……。
 それだけなら他の場所から情報を引き出せたかもしれない。問題はダラーズだけでなく池袋全体が同じ空気にあることだ。『折原臨也は善人、それが当たり前』というような空気。それが煙幕となり、情報収集が困難になっていた。ここで下手に動けば、まるで常識から外れた異端者のように注目され、目立ち、この『悪夢』を作り出した張本人にも知られてしまう。
 まさか情報戦で先手を打たれているなどとは思いもよらなかった。しかも相手はどうやら臨也の動きを封じる程の手練れらしい。あの池袋を簡単に掌握したのだから、当然といえなくもないが。
 ――粟楠会の力を借り……いや、駄目だ。
 臨也は頭に浮かんだ打開策を早々に打ち消す。
 一夜にして池袋の覇権を握られ、敗者となった臨也に誰が力を貸すというのか。それよりも臨也を売り、臨也より優れていると思われる『悪夢』の支配者と組んだ方が利益があることは容易に想像がつく。自分が粟楠会の立場ならそうするだろう。
 もしかすると、敵はそれを狙っているのかもしれない。臨也を失脚させ、自分がとって変わろうと考えているのかもしれない。
 いや、それも違う。
 この状況に対し、未だに一人の人間も「おかしい、折原臨也の評価が変わってしまっている」とは言い出していない。臨也が今まで関わってきた人間全てが――あの粟楠会までもが、だ。ということは、自分の今まで関わった全てが既に敵の手の内だと考えられる。
 敵の狙いは失脚どころではない。情報屋、『新宿の折原』の完全な消滅、死だ。敵は完全に臨也の地位や立場、その他全てを消し去ろうとし、狙い通りそれはほぼ完了している。
 ――自分が池袋を統治するのに邪魔な俺を無力化するため……ってところか。
 臨也から力を奪った上で、池袋の人間全てに臨也を監視させる。こうしておけば臨也は下手に動くことが出来ない。情報を集めることの出来ない情報屋など無力。今の臨也は繋がれた犬と同じだ。殺さないのは、何か利用価値があるからだろうか。
 臨也は犯人の正体について考える。
 まず臨也を疎ましく思っている者。情報戦に精通しており、池袋の覇権を握れるほどの能力がある者。あの平和島静雄や首無しライダーすら掌の上で操る者。
 最初の条件に当てはまる者は大勢いたが、その後が難しい。結局どんなに考えても臨也の中に心当たりは無く、犯人の目星はつかなかった。



 臨也はチャット画面を眺めていた。
 入室しなかったのは、ハンドルネーム田中太郎がいたからだ。彼の正体を知る者はほとんどいないが、万が一ということもある。今は行動すべきでないと考え、臨也は見ることに徹した。
 ――……!
 そこに突如現れた人物の名前に、臨也は目を見開く。それは、既にこの池袋にいないはずの人物だった。



――エイトさんが入室されました――

エイト【こんばんは】
田中太郎【えっ】
田中太郎【エイトさんって、あの?】
エイト【実はまた池袋に戻ってきて】
エイト【ネット環境整ってないんでネカフェから】
田中太郎【そうなんですか!?】
エイト【また宜しく】
田中太郎【こっちこそ宜しくお願いします】

――セットンさんが入室されました――

セットン【こんばんはーってエイトさん!?】
田中太郎【また池袋に戻ってきたそうですよ】
セットン【ほんとですか!】
セットン【うわー嬉しい! またいっぱいお話しましょう!】



 そうだ、彼がいた。
 ハンドルネーム、エイト――三好吉宗だ。
 三好は数ヶ月の間だけ池袋にいた少年だ。ほんの一ヶ月前に両親の都合で海外に引っ越したはずだが、戻ってきたらしい。
 池袋を離れ、海外にいた彼なら『悪夢』に関わっていないかもしれない。臨也はすぐさま三好に電話をかける。三好が携帯電話を解約していかなかったことを臨也は知っていた。
『……はい、三好です』
 電話はすぐに繋がった。念のため臨也は声を抑え、まず自分の名前を呼ばないようにと伝えた。三好の頭の回転は早い。すぐに理由を察知したのか、何も聞かずに了承した。
「今池袋に戻って来てるんだって?」
『なんでそれを……』
「俺が情報屋だから、と言っておくよ」
 ――情報屋、か。
 臨也は思わず自嘲の笑みを浮かべた。もはやそんなことを言えるような状態ではないのに。
 しかし今は何より、運良く垂れてきた三好という細い蜘蛛の糸を活かさなければならない。崖っぷちにいる臨也は、単刀直入に話を切り出した。
「ところで三好君。今誰か池袋にいる人と話せたりする? 友達でも誰でもいい。……俺のことについて、聞いてみて欲しいんだ」
 なかなか返事は返ってこなかった。意味が分からず困惑しているのだろう。
『……あなたについて、ですか?』
「もちろん、それとなくね。頼んだよ。また十五分後くらいにかけ直すから」
『分かりました』
 臨也は電話を切り、画面に目を向ける。
 思惑通り、エイトは今まで現在の池袋について会話していたことを利用し、チャット内で臨也についての質問を投げかけていた。



エイト【そういえば、あの人達も相変わらず?】
田中太郎【あの人達?】
エイト【ヘイワジマシズオさんとオリハライザヤさん】
エイト【しょっちゅう暴れてたから】
セットン【あー、あの二人ならもう大丈夫ですよ】
エイト【捕まったとか?】
セットン【実は折原さんの誤解が解けて】
セットン【平和島さんも暴れる理由が無くなって今は静かになってます】
エイト【誤解?】
セットン【平和島さんは折原さんのこと悪人だと思ってたから追いかけ回してたんだって】
エイト【悪い人じゃなかったってこと?】
田中太郎【そうなんですよ】
田中太郎【みんな誤解してたみたいで】
エイト【なんか信じられない……】
田中太郎【私も最初はびっくりしたんですけどね】
セットン【ですねー】



「やあ、どうだった?」
 友人と電話するから退室する、というエイトの書き込みを見た臨也は早速電話をかけた。
『いい人だって言ってました』
 三好は笑いながら答える。臨也がいい人だなんて、何かの冗談だと思っているのだろう。しかし臨也は笑えない状況だ。
 やはり池袋の人間は全てが『悪夢』の住人だと考えていい。再確認した臨也は、苛立った声で三好に問う。
「そう。ちなみに君はどう思ってる?」
『はい?』
「俺のこと」
『……はい?』
「君は、俺について、どう思ってるの?」
 自分でもおかしなことを聞いてるな、と臨也は思った。もう少し聞き方があっただろう、とも。しかし真剣なのだから仕方がない。三好の答えによっては、せっかく手にした蜘蛛の糸がぷっつりと切れてしまう。
 はあ、と間の抜けた返事の後、三好は困ったような声で言った。
『えーと、好きですけど……』
「そうじゃなくて。その友達の言う通り、いい人だと思う?」
『それは無いです』
 間髪を容れず聞き返した臨也に、三好は即答した。臨也が善人であるはずがない、という口振りで。
 どうやら臨也の考えは正しかったらしい。三好はこの『悪夢』の外の人間のようだ。
『……一体どうしたんですか?』
 思わず安堵の溜め息を吐いた臨也に、電話の向こうの三好が怪訝そうな声で尋ねてくる。
「悪いけど、今その質問に答えることは出来ない。電話で話すのはやめた方がよさそうだからね」
 臨也は日を改めて直接説明することを約束し、電話を切った。



 三好が池袋に戻ってから一週間。そろそろ状況も落ち着いてきただろう、と臨也は三好を新宿に呼び出した。
 池袋ほどではないが、やはりここでも臨也は監視されている。その視線が気になるのか、臨也の後を付いてくる三好はどうも居心地が悪そうだ。
「……どうなってるんですか?」
「これから説明するよ」
 臨也が入ったのは普通のレストランだった。どこか人目につかない廃ビルなどを予想していた三好は目を丸くする。
 こんなところで喋って大丈夫なんですか、という三好の質問に、臨也は諦めた顔で答えた。どうせどこに行っても監視されているのだから、どんなに小細工をしても通じないだろう、と。三好はそれを聞いて初めて、臨也が深刻な状況にあることを知った。
 一番端の、出来る限り会話を聞かれにくいテーブルに座り、臨也は二人分のドリンクだけを注文した。そして店員が完全に来なくなるまでの間、適当な世間話を始めた。
「三好君はどうして池袋に戻ってきたの? またご両親の仕事の都合かな?」
「いえ。やっぱり池袋にいたかったので、両親を説得して僕だけ戻ってきました」
「へえ……向こうの生活が気に入らなかったとか?」
「あんなことがあった後だとどこでも退屈ですよ」
 あんなこと、とは偽の首無しライダーが出現した時のことだろうか。三好はあの事件に巻き込まれ、僅かな期間で様々な非日常を知ってしまった。それに比べればどんな生活も褪せて見えてしまうだろう。
 お待たせしました、という店員の声が会話を遮る。店員は笑顔で頭を下げ、グラスを二人の前に置いた。
 果たしてこの店員の笑顔は職業上のものなのか、それとも自分を監視するあの笑顔なのか。臨也は警戒しながら、伝票を置いて去っていった店員の背中を目で追った。
「どうかしたんですか?」
 三好は呑気に来たばかりのコーラを口に運んでいる。
 これでしばらくここに近付く者はいないだろう。臨也は三好に経緯を話した。
 池袋にいる人間全てが自分を知っていること。自分に対する評価が逆転していること。そしてそれを誰一人疑問に思わないこと。人間達が必ず自分に笑いかけてくること。そこから、池袋が既に誰かの手中にあり、自分はその誰かに人間達を通して監視されているという結論を出したこと。
「心当たりとかは?」
 臨也の話に相槌を打っていた三好は、そんな月並みなことを聞いた。
「そんなものがあれば、君に話したりする前に解決してるよ」
 当然、臨也は嘲笑する。
 三好はそのことについて特に不快感を露にしたりはせず、首を傾げた。
「……ということは、また前みたいに僕に『心当たりになりそうなもの』を探ってきて欲しいと」
「話が早くて助かるよ。君みたいな外部の、それもただの高校生ならどんな相手も油断するだろうしね。頼んだよ、名探偵さん」
「はあ……」
 三好は以前、同じように臨也に頼まれて情報を集めたことがある。転校してきたばかりの何も知らない子供の疑問なら、どんな相手でも答える確率は上がる。しかも三好の人懐こい、人畜無害そうな性格も相まって、大抵の人間は快く情報を教えてくれた。
 臨也はそれを再び利用し、自分についての情報を集めさせようと考えたのだ。
「――でも、そんな神経質にならなくてもいいと思うんですけど」
 今後とるべき行動について考えていた臨也は、そんな三好の言葉で顔を上げる。
「だって、実害は無いみたいだし」
 眉をひそめた臨也とは逆に三好は不思議そうな顔をしている。臨也が何故苛立っているのか分からない、という顔だ。
「実害なら、監視されてるって時点で十分だと思うよ」
「それって、本当にそうなんですか?」
 ――本当にそうなんですか、だって?
 一体三好は何を言っているのだろう。
 臨也は一度、目の前の不味いアイスコーヒーを飲み、冷静になるよう努めてから、三好に続きを促した。
「……だって、監視云々は臨也さんの推測でしょう」
 三好はきっぱりとそう言った。まるで何か確信があるかのように、はっきりと。反論しようと口を開きかけた臨也を制し、三好は続けてすらすらと自分の考えを述べる。
「臨也さんが人に見られてるのは事実だと思います、僕も視線を感じたし。だけど、それを見張られてると決めつけてるのは臨也さんです。一言で言うなら、被害妄想ですよ」
 被害妄想、たったそれだけの言葉で済むものか。臨也は顔を歪めて言い返した。
「そんなはずが無いだろう。いや、仮にそうだとしよう。監視されてるのは俺の自意識過剰で片付けよう。でもそれなら、俺についての評価が書き換えられてることはどう説明する? 俺が何もしていないなら、誰かがそれを仕組んだってことだ。つまり、この件には黒幕がいるんだよ」
「良かったじゃないですか」
「良かった? 俺は今まで積み上げてきたものを白紙にされたんだよ?」
「そうですよ。その黒幕のおかげで、臨也さんが積み上げてきた悪評とか憎悪とか悪い方面の地位は全部白紙。ってことはついでに五体満足で裏社会から足も洗えた。良いことずくめですよ。黒幕に感謝してもいいくらいじゃないですか」
 臨也の反論を、コーラを飲みながらのらりくらりと三好はかわした。
 もしや、既に三好もこの『悪夢』に侵食されているのか。臨也は警戒し、袖口にあるナイフに意識を向けた。
「――それに、臨也さんの理想の世界じゃないですか、これって」
「……え?」
 そんな言葉とズズッというどこか間抜けな音が、臨也の緊張とは裏腹に響く。三好がコーラを飲み干した音だった。
「前、言ってませんでしたっけ。『人間も俺を愛するべき』とかなんとか」
 三好はストローで残った氷を弄んでいる。音楽が流れているはずの店内で、氷のたてるガラガラという音が臨也にはいやに大きく聞こえた。
「みんなが臨也さんを知ってる。みんなが臨也さんを見て笑う。臨也さんを嫌ってた人達も、みんなが臨也さんをいい人だと言う。これって『人間が臨也さんを愛してる』ってことだと思いますけど」
 耳障りな雑音をたてながら、三好は淡々と言葉を並べる。
 臨也は嫌悪感を露にし、脚を組み直しながら吐き捨てるように言った。
「これが理想の世界? 俺の理想の世界は人間を永遠に観察していられる世界だよ。地球上に存在する人間達が一体何を考えて生きているのか、そして俺が干渉したらどんな反応をするのか、そういうことを楽しんで見ていられる世界だ」
 ストローを弄んでいた三好の手がぴたりと止まる。
「……じゃあ、両立は不可能だったってことですね、残念ながら」
 それは冷たい声だった。
 氷に注いでいた視線を臨也に向け、三好は嗤った。まるで哀れむような目で。
 ――っ!?
 臨也は目を見開いた。三好のこんな表情は今までに見たことが無かったからだ。目の前にいる少年は確かに、先程まで無邪気な笑みを浮かべていたはずなのに。いや、これは本当にあの三好吉宗なのか。
「――監視だとか、地位を奪うだとか、そんなつもりは本当に無かったんですよ。僕は心から、臨也さんの望みを叶えてあげようと思っただけで」
 困ったように眉尻を下げて三好は喋る。
 一体何を言っているのだろう。これではまるで、犯人そのものではないか。
 ――まさか。
 臨也の脳は瞬時に答えを出した。その答えに従った身体は弾かれたように立ち上がり、ナイフを握る。
 同じく三好もゆっくりと立ち上がった。そして何かの合図をするように手を振ってみせる。
 ――これは。
 その合図を受け、厨房からぞろぞろと店員達が現れた。包丁を持ったコックや、ステーキ用のナイフを持ったウエイトレス、カッターを持った事務員までいる。異様なのは、その者達の目が一様に爛々と赤く光っていることだ。
 全てを悟った臨也は、ごくりと唾を飲んだ。
「……まさか、君が犯人だとは思わなかったよ。三好吉宗君」
「チャンスはあったのに、探偵が犯人の場合や未知の能力Xを予想出来なかったのは臨也さんの落ち度です」
 驚愕と混乱が入り交じった表情を必死に取り繕う臨也を見て、三好はにっこりと首を傾げて笑った。
「これは推理小説じゃなく、現実なんですから」



「この人達を見てもらえば想像出来ると思うから、手段については省きます」
 包丁を持った店員に脅され、臨也は大人しく椅子に座った。この程度の人数なら逃げることは容易だ。しかし、どこにも逃げ場が無いことは明白であるし、逃げたところでどうすることも出来ない。臨也の判断は賢明だった。
 三好は来た時と同じように臨也の向かいに座り、店員の一人にコーラのおかわりを頼んだ。お待たせしました、と店員がコーラを持ってきてから、漸く三好は口を開く。
「――好きな人の夢とか望みって、叶えてあげたくなるじゃないですか」
「はあ?」
 唐突にそんなことを言い出した三好に、臨也は怪訝な声をあげた。今そんなことが関係あるのか、と。
「で、僕は臨也さんが好きなので、臨也さんの望みを叶えてあげようと思ったわけです」
 三好はあの人懐こい顔で、淡々と説明を続けた。臨也の顔がひきつる。
「君が俺を? それは……初耳だね」
「そうでしたっけ?」
 臨也にとっては寝耳に水だった。しかしそんなことはどうでもいい、というように三好は続ける。
「そこでさっきも言った通りですけど、『人間の方も臨也さんを愛してる世界』を頑張って作ったわけです」
「ふうん……」
 臨也は少し続きを待った。
 三好はコーラを飲んでいる。どうやら説明はそれで終わりらしい。
 たったそれだけのことで池袋中の人間を操り、臨也を追い詰めたのか。そんなことのために、池袋に戻ってきたのか。
 臨也は三好を睨み、殺意すらこもった声で言った。
「これは俺の理想の世界なんかじゃない。ただの『悪夢』だ。これじゃあ、俺が人間を愛することが出来ないじゃないか」
 三好は眉一つ動かさなかった。不気味なほどに平静で、臨也の批判などどこ吹く風、とでもいうようだ。
 思わず臨也が一瞬怯むと、三好はまた哀れむような視線を投げかけ、ストローをくるりと回した。
「だから、さっき言ったように、両立は不可能だったってことですよ。臨也さんの望みは、最初から」
 ストローを回すたびに、氷がまた音をたてる。臨也にはそれが不快だったが、三好はにこにこと楽しそうに笑っていた。もしかすると、臨也がそう感じていたのを知っていたからかもしれない。
「だって人間達がどんなに臨也さんを『愛して』も、当の臨也さんが拒否するんだから。……今更、こんなのは愛じゃない、なんて正論は無しですよ。臨也さんが人間を『愛してる』から人間達も同じように『愛し返してる』だけです。臨也さんが本当に人間を愛してるなら、向こうも応えてくれると思いますよ」
 臨也の前にあったアイスコーヒーの溶けた氷がカランと音をたてた。三好は「飲まないんですか?」と間抜けな質問をしてから、珍しく口をつぐんだままの臨也に向かって指を二本立てて見せた。
「解決する方法は二つあります」
「言ってごらんよ」
 やけに勿体ぶる三好を、臨也は急かした。この状況を、なんとか早く打開したいところだ。
 三好はまず、まぶしいほどの笑顔で中指を折り、明るい口調でひとつめの解決策を述べた。
「ひとつめの方法は、裏社会から足を洗ったついでに、心まで真人間になることです。監視されてるだとか、地位を脅かそうとしてるだとか考えずに、人間達に愛されていることを受け入れる。そうやって真っ当に人間を愛せるようになれば、むしろ平和で楽しい人生になると思いますよ」
 ふざけるな、と臨也は思った。
 確かに三好の言う通りではある。しかし、それは今までの自分を、折原臨也という人間を殺すことと同義だ。それでは全ての人間を愛することは出来なくなる。
 臨也がそれを受け入れるとは最初から思っていなかったのだろう。三好はさっさと次に移った。
「ふたつめは――僕を愛することです」
「……はあ?」
 今日一番意味が分からない言葉だった。一体三好は何を言っているのだろう。
 呆ける臨也に、三好は嘲るような、挑発するような笑みで言った。
「僕は臨也さんの言う『悪夢』の人間じゃない。心から臨也さんを愛している。臨也さんが僕を愛そうと『愛』そうと、僕は臨也さんを愛してる。現状に甘んじて『悪夢』の外にいる僕を観察するのもよし、僕に干渉して『悪夢』からの覚醒を図るもよし……ということです。信じるか信じないかは臨也さん次第ですけど」
 ――従うしかない、ってことか。
 臨也は歯噛みした。ありとあらゆる手段の先手をとられ、無様に敗北し、しかも自分が味方――駒だと思っていた少年がその犯人だった。そして今、その少年に理不尽な取り引きを強いられている。人生最大の屈辱だ。
 殺意をこめて三好を睨むと、周囲の店員達の赤い目が一斉に臨也を見た。おそらく、三好に危害が及べば臨也を殺すように命令されているのだろう。何が「臨也のことを愛している」というのだ、三好も、この人間達も。やはりこれは『悪夢』らしい。
「こんな回りくどくて一方的で、ついでに脅迫としか思えない告白をされたのは初めてだよ」
「僕も告白なんてしたの初めてだったから緊張しました」
 臨也の皮肉に、三好は普通の学生の顔で答えた。ちなみに、緊張した様子などはどこにも無い。
「君は友達の恋愛相談に乗ってあげるといい。ハイかイエスでしか答えられない告白の仕方とか」
「それは無理です」
 一体どこをどうすればこんな無邪気な顔で笑えるのだろう。呆れ顔の臨也の言葉を、三好は軽く受け流す。
「僕の友達はみんな人間で、臨也さんのことを『愛して』ますからね」
 まったく笑えない冗談だ。
 臨也は溜め息を吐き、三好の『告白』を了承した。



 今から一ヶ月と少し前――池袋を発つ一週間ほど前、三好はある二人を呼び出した。
 園原杏里と、セルティ・ストゥルルソンだ。
『三好君、大事な話って何?』
「落ち着いて聞いて下さいね」
 三好はそう前置きし、話始めた。この池袋全体を利用しようとする人間――折原臨也について、全てを。
 今回の偽ライダー事件だけでなく、三好がまだ池袋に来る前にも、様々な事件に絡んでいたこと。今後、ダラーズと黄巾賊を戦わせようとしていること。
 三好も、臨也に利用されていたばかりではない。いや、利用されたからこそ臨也を凌駕するほどの能力を開花させたというべきか。
 二人は驚いているようだったが、釣り上げるには餌が足りない。三好はとっておきの情報を用いた。
「実は――その二つの組織が戦えば、帝人と正臣が危ないんだ」
「どうして二人が……?」
「……ダラーズと黄巾賊のリーダー、それが、竜ヶ峰帝人と、紀田正臣なんだ」
 杏里は信じられない、という顔だった。帝人のことを知っていたセルティも、三好の言葉が真実だと肯定する。
『でも、なんで臨也は二つの組織を争わせようとするんだ? 一介の高校生が作ったグループに過ぎないのに』
「セルティさんも、落ち着いて聞いて下さいね」
 セルティの言うことはもっともだ。腑に落ちないのは当然だろう。しかし三好は、誰も知らないはずの臨也の本当の計画を説明した。
「実は、セルティさんの首は、折原臨也が所持しています」
 そこからは簡単だった。
 三好は臨也の計画を未然に防ぐための自分の計画を二人に説明し、協力を仰いだ。
 人間を一人殺すような計画だ、通常なら二人は協力しなかっただろう。しかし二人にはそれ以上に守らなければならない人間がいる。三好の思惑通り、杏里は友人を守るため、セルティは首を取り戻すため、当然のように頷いた。
 こうして三好は池袋から一旦去り、街を『悪夢』で包んだ。



「園原さん!」
 待ち合わせに早く着きすぎた杏里は、同じく少し早く現れた三好に安堵する。
「こんにちは、三好君」
 杏里が手を振り返すと、そんなつもりは無かったのに三好が走ってこちらへ向かってきた。どうやら杏里を待たせてしまったと思っているらしい。謝る三好に、早く着きすぎたのは自分の方だと杏里も頭を下げた。
「ごめんね、折角の休みに」
「いいんです。……こんなこと、学校じゃ話せませんから」
 二人は並んで公園のベンチに座った。真冬の公園は誰もおらず、寒いことを除けばかえって都合がいい。 ――まあ、街中で堂々と話しても僕は構わないんだけど。
 三好は俯いて座っている杏里を見た。彼女がいなければこんな計画は思い付かなかっただろう。しかし杏里はその力をあまり行使したくはないようだ。人間達に申し訳ないと思っているのかもしれない。
「これでよかったんでしょうか……」
 杏里が膝の上でぐっと手を握りながら呟く。
「少なくとも、帝人や正臣を守ることは出来たんじゃないかな」
「……そう、ですね」
 杏里は三好の『提案』に乗り、池袋よりも友人の平穏を望んだ。それが間違いだと責めることは誰にも出来ない。杏里自身が自分を責めない限り。
「間違っていたとしても、私は謝りません。友達を守るために自分で選んだことだから……後悔もしません」
「僕も謝るつもりは無いよ」
 杏里は決意した表情で言った。彼女には珍しい、強い口調だ。三好は微笑みながら同意する。
 明日からはまた学校だ。あの平和な教室で、帝人や正臣と笑いあえる。他人から見ればたったそれだけのことかもしれないが、杏里にとっては必死で守った世界だ。ひどく明日が待ち遠しい。
 一通り世間話と『悪夢』についてを喋った二人は、そろそろ別れることにした。日が落ちれば寒さは増す。風邪をひいてしまえば楽しみにしている学校にも行けなくなってしまうからだ。
「三好君、一つだけ聞いてもいいですか」
 立ち上がった杏里が、遠慮がちに口を開く。三好は人懐こい笑みで首を傾げた。それを了解と取ったのか、杏里はこの『悪夢』の一つだけ分からない点を聞いた。
「私は友人を守れた。セルティさんは探し物が見つかった。三好君は、この計画で……何を手に入れたんですか」
 ――そういえば、言ってなかったっけ。
 今更そのことに気付き、三好は笑った。自分が何故こんな『悪夢』を計画したのか。その発端は――
「――愛だよ」
 三好は人差し指を突き付け、クラスメイトがかつて使ったという言葉を真似て言った。



 現在臨也は、一人で暮らす三好の家にいた。外に出るなとは言っていないが、相変わらず監視されていると思っているらしく、ずっと三好の帰りを待っている。
 ――策士、策に溺れるってやつか。
 三好は扉の向こうにいるであろう臨也を想像して、笑った。
 本当に、臨也は監視などされていない。
 現在池袋にいる罪歌の子達と、三好が味方につけたダラーズと黄巾賊の人間。それらを使って臨也を『悪夢』の中にいると錯覚させる――それが三好の計画だった。
 まずは彼らを使って臨也を見る。彼らが臨也を見れば、周囲の無関係な人間も何事かと臨也を見る。操っていたのは人間そのものではなく、その心理だ。臨也に適当なタイミングで罪歌の子を見せはしたが、池袋にいる人間全てを操ることが出来るとは誰も言っていない。言ったとすれば、臨也くらいだろう。
 ――田中太郎さんやその他の人が協力してくれたのは有り難かったけど……まさか静雄さんが協力してくれるとは思わなかったなあ。
 厄介だったのは臨也を殺そうとする静雄の存在だ。なんとか臨也に会わないようにするか、いざとなれば罪歌で操るしかないと考えていた。しかし結果的に静雄は協力してくれた。説得には苦労したが、その効果は絶大だったといえる。静雄の存在は、『悪夢』をよりリアルにしてくれた。
 ――臨也さんが僕の命の恩人だとかなんとか、よくあんな嘘が出たし、よく信じてくれたよな。
 まあ、全ては結果オーライだ。臨也がこの扉の向こうにいるんだから、それでいい。
「ただいまー、臨也さんっ」
 三好はフルスマイルで扉を開けた。狭い室内には予想通り眉間に皺を寄せた臨也が座っている。
「……おかえり、どこに行ってたんだい?」
 臨也はあの時三好が言ったように、三好を『愛し』た。三好から情報を引き出し、それを組み合わせて干渉し、逃げる手段を探す。三好の嘘にも気付かず、健気にそれを続けている。
「ちょっと園原さんとお喋りを」
 杏里の名が出た瞬間、臨也の目付きが変わった。杏里が罪歌を所持していることは臨也も知っている。自分を監視する手段について相談している、と思ったのだろう。
「へえ……次は何を企んでるんだろうね」
「どうでしょう」
 臨也はそれきり黙った。次は一体どんな方法で、三好はこの『悪夢』を続ける気なのだろう。それを考えるためだ。実際はそんなことは有り得ないのに。
 あえていうなら、池袋では「臨也が失踪した」という噂が流れている。臨也が外に出ないためだ。今外に出れば人間達は「戻ってきたのか」と臨也に注目するだろう。しかしそれは自業自得で、三好の知ったことではない。
「ほら、何か企んでるんだろう?」
「企んでません」
 そんなことにも怯える臨也が可哀想で、三好は笑った。その笑顔を深読みして臨也はまた長考している。
 今や臨也は三好の掌の上の、まったく哀れな存在だった。
 ――僕は『愛され』てるなぁ。
 完全にずれた方向で喜ぶ三好に、完全に疑心暗鬼の臨也。歪んだ『悪夢』はまだまだ終わりそうもない。



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