帰り道に猫がいた。
艶やかな背中に対して、首の周りの毛はたてがみみてえに広がってる黒猫だ。
首輪はしてないから、どうも野良らしい。
後ろ脚を引きずって歩いているところを見ると事故にでもあったんだろうか。

「あ、見て見て!にゃんこだー」
「怪我してるー」

傍を通った女子高生のグループがわいわいと騒ぎ立て、猫は消え入りそうな声でか細く鳴いた。
同情を誘う声だ。
病院に連れて行って欲しい、と訴えているのかもしれない。

「可哀想だけどうちペット禁止なんだよねー」
「病院連れてくお金も無いし」

一通り騒いだ後、申し訳なさそうに女子高生達は猫に手を振って去っていった。
猫はしばらく鳴いてたが、無駄だと分かったのかぴたりと鳴き止んだ。
代わりに長い尻尾を不満そうにぶんっと振っている。
……病院ぐらい連れてってやるか。
傷自体は酷くなさそうだが、放っておけば化膿するかもしれない。
そう考え、俺は猫に近付いた。

「…………」

猫がぴくりと耳を動かし、たてがみのような毛を揺らしてこっちを振り向く。
真っ黒な顔に光る金色の目が俺を睨んだ。
「猫は尻尾が長いほど美しい」と聞いた覚えがあるが、本当だったらしい。
猫の顔の違いなんざ考えたことの無い俺でも綺麗な猫だと思う。
一歩近付くと、猫は唸った。
さっきとは違う低い唸り声だ。
女子高生相手には猫を被ってたってことか。

「なんもしねえよ」

俺が手を伸ばすと猫が一際大きく鋭く鳴いた。
そして手の甲に線形の痛みが走る。
よほど警戒しているのか、猫は脚が不自由にもかかわらず無理矢理距離を取った。

「おいお前、こっち来いよ。
病院連れてってやるから」

俺はしゃがみこみ、手招きをした。
引っかかれた憤りよりも、必死に生き延びようとする猫への同情が勝ったからだ。
猫は小さな背中を丸め、威嚇を続けている。

「だから何もしねえって」

俺がいくらそう言っても、猫は警戒を解こうとしない。
……なんもしねえ、つってんのによ。
仕方なく俺は立ち上がり、猫に近付いた。
猫は慌てて逃げようとするが、怪我をした脚で逃げ切れるわけがない。
俺はすぐに猫に追い付き、たてがみのような首根っこを掴んで持ち上げた。
フーッと猫が抗議の声を上げる。

「ああこら、暴れんな」

俺は暴れる猫をぶら下げたまま歩き出した。
さてと、病院はどっちだったか。
動物病院の場所なんざ気にしたことも無かった。




「それで僕の所に連れて来るっていうのはまさに縁木求魚だ。
それともこの猫は闇医者にしか頼れない理由でもあるのかな?」
「仕方ねえだろ、近かったんだから」

俺の言葉に新羅ははあっと溜め息を吐いた。
猫は相変わらず暴れている。
セルティが触りたそうにしてるが、引っかかれると悪いから渡すのは止めた。

「うーん……脚を引きずるなら骨折か脱臼だと思うけど……ちょっと貸して」

あぶねえぞと一応止めたが、新羅は猫を受け取り、抱き上げた。
そして後ろ脚をまじまじと見つめる。
何故か猫は大人しくなった。
新羅も引っかかれる覚悟をしていたのか拍子抜けだったらしい。
楽しそうに猫を観察している。

「しかし、実に眉目秀麗な猫だね。
野良なのかな?
毛並みがいいから、エサだけ貰ってるのかもしれない」
『新羅、私にも抱かせてくれ!』
「はい、どうぞ……随分嬉しそうだねセルティ」

…………。
二人に抱かれてる間、猫は大人しくしていた。
それどころかゴロゴロと喉を鳴らしている。
……なのによ、なんで俺が抱こうとしたら噛み付くんだ?
いくら俺だって猫相手にキレたりはしねぇけどよ。

『じゃあ、私が影でキャリーバッグを作るから、それで連れていけば大丈夫じゃないか?』
「ああ、悪い」

セルティの手からすっと影が伸び、小さな黒いキャリーバッグが机に乗る。
キャリーと同じ色の黒猫はそこに入れられても、怖がることもなく大人しい。

「よし、これで病院へ……うぉっ!?」

俺がキャリーを持ち上げようとした途端、猫が隙間から爪を出した。
興奮してるのか激しく鳴いている。
それを見た新羅が、とっくに分かりきったことをほざいた。

「どうやら静雄にだけは触られたくないみたいだね」

どうもこの猫は俺のことが嫌いらしい。
嫌いというより、気に食わないような態度だ。
まるで世界で唯一、俺の存在だけが気に食わないような……。
そこまで考えて、セルティに肩を叩かれた。
新羅が部屋の隅に避難している。
どうやら俺は、今にもキレそうな顔で猫を見ていたらしい。

――『ところで、動物病院は名前がいるぞ。
何にする?』
「そういえばそうだね……静雄、何かある?」

俺の気を他へそらそうとしたのか、セルティが唐突にそんなことを入力した。
――確かに、言われてみればそうだ。
いつまでも猫猫ってのは呼びにくいしな。
俺は猫の顔をじっと見た。
猫は唸っている。
こんなちいせぇ身体で俺に勝てると思ってるんだろうか。
……思ってるんだろうな。

「ノミ」

気が付くと、俺の口は自然に動いていた。
二人が不思議そうに俺を見る。

「こいつの名前。ちいせぇから、ノミ」
「ぶっ」

俺の言葉に、新羅が吹き出した。
思ったままを言っただけでどうして笑われなきゃならねえんだ。
そもそも名前に何かあるか聞いたのは手前じゃなかったか?

『ほ、ほら静雄!
今はそんなことよりこの子を病院に連れて行かないと!
私がバイクで病院まで送ってやるから!
ほら、行くぞ!』

…………。
ああ、そうだ。
セルティの言う通りだ。
今ここで新羅にキレる時間が勿体ねえ……。

「……ほんとか?
悪いな」

俺はセルティに礼を言い、猫の――ノミの入ったキャリーバッグを掴んだ。
中でノミがガタガタ暴れてるが、気にしない。
逆に、これだけ元気なら大丈夫だろう。
俺はノミを落とさないように注意しながら、セルティの後ろを追いかけた。




――結論から言えば、骨折だった。
酷いものではないらしいが、普通に動けるくらいに回復するまでは面倒を見てやることにした。
ノミは相変わらず懐く気配も無いが、エサだけは普通に食うのが幸いだ。
おかげで、トムさんと別れてからコンビニに寄り、エサをぶら下げて帰るのが日課になっている。

「へえー、本当に飼ってるんだ」

コンビニを出たところで、嘲笑うような声が聞こえた。
誰の声か、なんてことは考えるまでも無い。

「ノミ蟲……何しに来やがった?」
「シズちゃんが猫の面倒見てるなんておおよそ信じられない情報の真偽を確かめようと思ったんだけど……まさか本当だとは思わなかった。
どういう風の吹き回し?
……ああ、太らせて食べる気なのかな」

ノミ蟲は両手を広げ、一方的にベラベラと喋った。
俺は無言でエサの入った袋をその場に置く。
今日こそは奴を殺す。

「でもさあ、シズちゃん」

俺がコンビニのゴミ箱に手を伸ばすのと同時に、ノミ蟲の声のトーンが変わった。
あのうぜぇ笑顔も消えている。
ノミ蟲はそのまま咎めるような声で、言葉を続けた。

「確かその猫、野良だったっけ。
いや、野良かどうかも分からないか……首輪してないだけで誰かが面倒見てたかもしれないし。
ってことは怪我が治ったら元通り返してやるの?
それとも引き続き面倒見るのかな?
どっちにしろ可哀想だよね。
一度人間に助けてもらった猫が元通り暮らせるとは限らないし、シズちゃんが面倒見るにしたって、昼間は誰もいないんだから何かあった時に手遅れになってもおかしくないよ。
ましてやその猫はシズちゃんのこと嫌ってるみたいだし、余計ストレス溜まるんじゃないかなあ」

その言葉に、俺は歯噛みした。
いつも通りの屁理屈だ。
いつも通りにゴチャゴチャうるせぇ、とでも返せばいい。
なのに何故か、そう言うことが出来なかった。

「あれー?
反応無しってことは図星だったんだ?
猫が拾ってくれって言ったの?
そんなわけないから、シズちゃんが勝手に善意押し付けて助けたんだよね?
思い上がりも甚だしいよ。
そんなことも考えずに助けるなんて、そこまで馬鹿だとは思わなかった。
生き物を何だと思ってるのさ?」
「誰彼構わず利用してる奴にゃ言われたくねえな……」

やっと出た反論も、ノミ蟲は蚊ほども気にしていない様子で鼻を鳴らした。

「そうだね、俺は利用出来るものは何でも利用するよ。
例えば、偽善的で独善的な理由で助けられた猫とかね」

猫だと?
まさかこいつ、ノミに何かする気か?

「手前、あいつに何かしやがったら……!」
「そこでシズちゃん、ひとつ提案があるんだけど」

俺の言葉を遮り、ノミ蟲は人差し指を立てた。
その顔にはいつもの何かを企んでやがるような笑みが浮かんでいる。
どうせろくな提案じゃないだろう。
俺は聞く耳持たずに、ノミ蟲を殺すことにした。
しかし、ノミ蟲は予想外な言葉を発した。

「その猫、俺が預かるっていうのはどうかな?」
「あぁ?」

預かる、だ?
何言ってやがる。
手前なんざ信用出来るか。
そんな俺の反論は想定済みだったらしく、ノミ蟲は笑顔を崩さずに言った。

「別に、怪我が治るまでの話だよ。
怪我して体力の無い猫がこの暑い中放置されてればどうなるかくらい分かるよね?
俺は仕事上だいたい家にいるし、基本的に室内の温度は一定に保たれてるよ。
それに、必要ならこの猫が野良か飼い猫か、誰が面倒見てたのかまで調べたっていい。
もし飼い猫なら飼い主に返せばいいし、野良なら怪我が治る頃には涼しくなってるからシズちゃんが飼えばいい。
少なくとも夏の間は、君の家よりは快適に過ごせるんじゃないかなあ」

俺は閉口した。
確かに、珍しく、同意出来る内容だったからだ。
ただ、こいつに預けていいのだろうか。
……ムカつくが、頭は回る奴だ。
ノミに何かして、俺がどんな反応をするかくらいはわきまえてるだろう。
それに、今は俺の個人的なことを言ってる場合じゃない。
ノミの怪我を治す方が最優先だ。

「……分かった、頼む」

俺はなんとか声を絞り出した。
今にも殴りたい気持ちを抑え、拳を握りしめる。

「てっきり殴りかかってくるかと思ったんだけどなぁ」
「そうしてえのは山々だけどよ。
今はそんなこと言ってらんねーんだよ」

どうやらノミ蟲の方も同じ事を考えていたらしい。
そりゃあ俺だって今すぐうぜぇノミ蟲を殺してえけどよ。
今は何よりもあいつの怪我だ。
……それに悔しいが、ノミ蟲の言うとおりだしよ。

「じゃあ、早速猫を迎えに行こうか。
シズちゃんの気が変わらないうちに」

ノミ蟲は満面の笑みを浮かべながら歩き出した。
俺もエサを拾い上げ、それに続く。

「そういえばその猫なんて名前なの?」

前を行くノミ蟲がフードを揺らして振り返った。
……なんか今の、どっかで見たような気がするんだが……デジャヴってやつか?

「――ノミ」
「ん、何?」
「あ?」

何、じゃねえだろ。
手前が名前聞いたから答えてやったんだろうが。
俺はそうノミ蟲に――ん?
ノミ蟲……ああ、そうか。

「手前の名前はノミ蟲じゃねえだろ」
「はあ?
それはそうだけど。
ごめんシズちゃん、意味が分からない」

ノミ蟲は――臨也は自分が呼ばれたと思ったらしい。
確かに俺がノミ蟲ノミ蟲呼んでるんだが、それで返事するのはどうなんだ。
妙に可笑しくなり、俺は頬をかいた。
ついでに、気分がいいうちに言っとくか。

「なあ臨也」
「さっきから何?」
「ありがとよ」

俺の言葉に臨也が目を見開く。
そんなことが俺の口から出るとは思わなかったんだろう。

「え……シズちゃんどうしたの?
気持ち悪いんだけど」
「うるせぇな、人が礼言ってんだから素直に受け取れよ」

臨也は言葉とは裏腹に動揺しているようだ。
まあ確かに、こいつの日頃の行いからいって、礼を言われることなんて無いんだろう。

「勘違いしてるみたいだからもう一回言うけどさ。
俺は可哀想な猫を利用する理由があるわけ。
で、シズちゃんはそんな俺を利用して猫を預ける。
ギブアンドテイクだよ、お互いに利益があるってこと。
だから礼言われる筋合いは無いんだけど」
「あぁ?
俺がありがてぇと思ったからありがとうなんだよ。
手前と違って利用だなんだなんて考えてねぇからな。
ゴチャゴチャ言うんじゃねぇ」
「……俺はシズちゃんのそういうところが嫌いだよ」

臨也は諦めたように溜め息を吐いた。
ある意味勝った気がする。
同じように「負けた」と思っているのか、臨也は腹立たしげな声を上げた。

「で?
猫の名前はなんていうの?」




それからしばらく経った。
ノミは臨也に懐いたらしい。
ノミ同士気が合うんだろうか。
利用すると言った分、面倒は見てるようだしどうでもいいけどな。

「シズちゃん」
「なんだ……ノミ蟲か」

最近はノミ蟲が池袋に来ても、キレねぇことが多くなった。
理由はひとつ、ノミ蟲がノミの入ったキャリーバッグを持ってるからだ。
さすがにその状態で戦う気はしない。
それが目的なら、おおいに利用しているらしい。

「ノミが……ノミにノミが……」
「あ?
ノミがどうしたって?
なんかあったのか?」
「だから猫のノミじゃなくて、虫のノミが……ほら」

そう言いながら、ノミ蟲は真っ赤になった腕を出した。
キャリーバッグの中のノミはそんなことなど気にも留めずに毛繕いしている。

「何言ってんだ、ノミ蟲は手前だろうが」
「……もういいや、新羅んとこ行ってくる」

そう言うなり、ノミ蟲は確認の電話を入れようとしたのか、PDAを取り出した。
ちらりと見えた待ち受けには真っ黒な猫が映っている。
最低限面倒見るどころか可愛がってるらしい。

「そう、じゃあ、今から行くから。
うん、そうそう……」

臨也が頷くのに合わせてフードが揺れる。
ふわふわと柔らかい毛の付いたフード。

「うん、それじゃ……うわっ!?」

気付くと俺は何故か臨也のフードを思い切り引っ張っていた。
自分でも理由は分からない。

「何?」
「いや……」

臨也の不可解そうな視線を受け、俺は手を離した。
なんで俺はこんなことしてんだ?
なんで掴もうと思ったんだ?
前にもこんなことがあった気がしたが、よく分からねぇしまあいいか。
多分掴みやすい位置にあったからだろ。
俺はなんとなくそう納得した。
そして、手持ち無沙汰にノミをバッグの隙間から構う。
みゃあ、とノミが可愛らしい鳴き声を上げた。
俺にも少しは懐いたらしい。
指を入れて撫でてやると、ふわりとノミの毛が揺れた。



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