メジャートランキライザー



「――それで、調子はいつも通りなのかい?」
 新羅の問いに、臨也は頷いた。同時に左手の甲に右手の爪を立てる。皮膚にグッと爪が食い込み、三日月型の痕が四つ、赤く残った。
 本来止めるべきである医者の新羅は何も言わず、痕が深いものでは無いことをちらりと確認するだけだ。
 今度は頭をコツコツと叩き、臨也は溜め息を吐いた。
「相変わらず最悪だ。心臓の辺りが痛いし、耳鳴りがするし、食欲も湧かない。本当になんでだろうね」
 心底苛立った声で言いながら、臨也は再び左手に爪を立てた。そしてその手を嫌悪するような目で見つめる。
 新羅が何か言おうと口を開く前に、臨也は吐き捨てるように言った。
「アレに触れられた手が腐っていく音がするんだよ。こうしてる間だけは痛みでそれが麻痺して、アレのことも忘れられる」
 汚物を見るように自身の左手を凝視する臨也に、新羅は眉尻を下げた。
「アレ……っていうのは――」
「アレはあれだよ。あの化け物。思い出させないでくれ。それだけで吐き気がするんだから」
 ――やっぱり、静雄のことか。
 今度は新羅が溜め息を吐く番だ。しかし、出掛かったそれをぐっと堪える。臨也は真剣なのだ。少なくとも身体に影響を及ぼす程には。
 臨也は新羅の考えなど気にも留めず、勝手に話を続けた。
「アレがいるから駄目なんだよ。アレがいるから、俺はアレのことを警戒せざるを得なくなる。アレがいなければ俺の計画は順調に進むのに。アレがいなければ――」
 言葉の途中で、臨也が呻く。口を押さえうずくまった臨也の背を新羅が撫でようとしたが、臨也はその手を振り払った。
 何か言いたげだった新羅も、臨也の青い顔を見て口をつぐむ。おそらく静雄の名前を出そうとしたのだろう。
「っく……ぅえ……」
 込み上げた胃液をなんとか押し戻し、臨也は口を拭った。目にはじわりと涙が滲んでいる。
「あーあ……ほんと死ねばいいのに」
 ハハハと自嘲を浮かべ、臨也は目をごしごし擦った。なんと声をかけていいのか考えあぐねているらしい新羅に、臨也は肩をすくめてみせる。
「――とまあいつも通り、こんな感じ。このままだとアレに殺されるってことになるのかな。内側からアレに侵蝕されて腐っていくのかな。……いや、あんな奴に殺されてたまるか。あんな奴に殺されるくらいなら死んだ方がマシだ。でも俺は絶対死にたくないから、それは御免こうむる」
 口が減らないのはいつもとまったく変わらないが、臨也が少しずつ痩せて衰弱していくことに、当然新羅は気付いていた。ほとんど物が食べられないらしい臨也に点滴を勧めたのは新羅の方だった。
 無言で袖を捲る臨也の腕に、新羅はいつも通りに針を刺す。
 この腕もますます細くなってしまった。どうやら静雄の存在は臨也にとって相当なストレスらしい。
「心臓が痛いって、精密検査の結果は問題無さそうだったのに。具体的にどんな感じ? 今も痛いの?」
 新羅は臨也の顔色を見ながら問う。先程のように身体に異常をきたさないよう、慎重に言葉を選びながら。
「……そうだなあ」
 臨也は苛立たしげに眉をひそめたが、先程より深く左手に爪を立てながら口を開いた。
「普段はなんともないんだけどアレを見たり、アレのことを考えるとさ、心臓が痛くなってくるんだよ。……っアレのことなんか、考えたくもないから、出来る限り別のことを考えるんだけど……いつもいつも、アレの顔が、チラついて、それで、吐き気、が」
「……無理しなくていいよ」
 爪を立てた左手に滲んだ血を見て、新羅は首を振った。
 いつも不敵な笑みを浮かべている臨也がこんなにも弱っているのを見るのは、新羅も初めてのことだった。それなりに長い付き合いだが、臨也のせいで誰かがこんな顔をすることはあっても、臨也自身がそうなっているのは俄かに信じがたい。人間を自分の道具だとしか思っていない人間が、その人間相手に感情を露わにするなど。もっとも臨也は、静雄を人間ではなく化け物であると認識しているようだが。
「アレに掴まれかけた左手が腐っていくんだよ。そこから身体中に広がっていきそうだ。信じられないだろう? 俺も信じられないよ。多分自分じゃなきゃ笑い飛ばしてたんじゃないかな。だけど残念なことに事実なんだ。アレさえ死んでくれればなんとかなりそうなんだけど」
「分かった。分かったから、少し休みなよ。セルティが帰ってきたら送ってくれるように頼むから」
 睡眠不足だから気分が悪くなるんだよ。
 新羅は強引に臨也を説得し、予め敷いておいた布団に無理やり押し込む。これも臨也のために用意したものだ。折原臨也は反吐が出るほど最低な人間だが、新羅にとっては友人である。
「そうするよ……。この時間にアレがこの辺りを歩いてることは無いだろうけど、なんせアレはどこから現れるか分からないからね……」
 気怠げな口調の臨也に、新羅は眉を八の字に寄せた。セルティに借りを作るのはごめんだとか、何か言い返してくると思っていたからだ。そんなことを言う余裕も無いのかと新羅は改めて臨也の衰弱具合に危機感を覚えた。
「薬、用意しておくから」
 そう言って振り向いた頃には、臨也は眠っているのか目を閉じて返事をしなかった。新羅はパチンと電気を消し、出来る限り音を立てないように家を出る。
 セルティにメールを飛ばせば返事はすぐに来て、『今静雄と話してたところ、もうすぐ帰るから』とのことだった。どうやら静雄は反対方向に向かったらしく、鉢合わせることは無さそうだ。今の臨也が静雄に会えば、いつも通りに逃げられる力は残っていないだろう。新羅はホッと胸をなで下ろした。
 メールの通り、ものの十分も経たないうちにセルティは帰宅した。
 点滴が終わるまでまだ時間がある。もう少し寝かせておいてあげよう、という新羅の提案にセルティも同意した。
「本当は粉骨砕身で働いて帰ってきたセルティを今すぐにでも休ませてあげたいんだけど、そうはいかないみたいだ」
『私は大丈夫。それより臨也の調子は?』
 セルティの問いに、新羅は腕組みをしながら唸る。その行動をどう解釈したのか、セルティは焦った様子で矢継ぎ早に文章を入力した。
『そんなに悪いのか? 何か大変な病気とか? まさか命に関わるような!?』
 うーん、ともう一度新羅が唸る。うろたえるセルティとは逆に、新羅は困ったような、呆れたような微妙な表情だ。
「ある意味大変な病気には違いないだろうけど……」
 そんな奥歯に物の挟まったような物言いに、セルティが痺れを切らす。セルティに医学の知識は無い。臨也の不調も新羅から見ればたいしたこと無いのかもしれない。しかし臨也が辛そうなのは確かで、それを黙って見ていられるほどセルティは冷静沈着ではなかった。
 セルティに急かされた新羅はみたび唸り、じゃあ言うけど、と言いにくそうに口を開いた。
「病は病でも、恋の病じゃないかな、あれ」
 セルティは固まった。
 聞き返すことすら出来ず、PDAの画面に触れようとするポーズのまま、セルティはポカンと新羅を見ていた。
 新羅は右手を広げながら、その根拠を述べる。
「だってさ、考えてもみてよ。臨也の訴える症状はこうだ。静雄のことを考えると胸が苦しくて夜も眠れず食事も喉を通らない。まるでセルティのことを考えてる時の俺とおんなじじゃないか! これを恋の病と呼ばずしてなんと呼べばいい?」
『まさか』
 やっと硬直から復活したセルティはPDAに素直な感想を打ち込んだ。後半の惚気はスルーしておく。
『そんな理由であそこまで痩せたり吐いたりするのか?』
「そう、困ったところはそこなんだよ」
 セルティの指摘に、得たりとばかりに新羅が頷く。その顔は不謹慎なことに、どこか楽しげだ。
「同時に頭痛、吐き気、幻聴、幻覚を訴えてる。ついでに軽いし無意識だけど自傷行為も行ってるようだ。これは鬱病とか、精神的な病に見られる症状だ。……あの図太い臨也には縁が無いと思ってたんだけど」
『臨也が精神的に参ってるってこと?』
「うん、とどのつまりは。まったく慮外千万だね」
 今度はセルティが唸りたくなった。あの臨也が神経衰弱で、しかもその理由が静雄だというのだから、二人を知る者ならば皆同じ反応をしただろう。
「まあ恋の病、っていうのは冗談だけど。特定の誰かのことが気になるのが恋なら、静雄のことが憎くて気になるのもある意味恋だと言えなくもない。いや、もしかすると嫌悪が一周回って本当に静雄を愛してしまったとか。それなら不調をきたすほど落ち込むのも分かるかもしれないな。今まで毛嫌いしてた相手を好きになってるなんて、臨也にとっては屈辱以外の何ものでも無いだろうね」
 なんとなく茶化すような態度で新羅は言った。職業柄、そして二人の友人として、興味深いといった様子だ。
 腑に落ちないのかセルティはPDAの角を指で叩く。次の文章を考えあぐねているらしい。
 新羅はセルティの思い浮かべていることをくみ取り、にっこりと笑って自身の出した結論を述べた。
「愛は憎悪の始めなり、なんて言葉があるんだから、逆があってもいいんじゃないかな。どちらも相手に執着してるって意味では同じことだ。臨也にとってどっちが先だったかは卵と鶏くらい不毛な気もするけど」
「ちなみに生物学上は既に答えが出ていて、鶏が先なんだよ」
「うわっ!?」
 突然の補足する声に新羅が振り向くと、扉から臨也のうんざりとした顔が覗いていた。
 まさに喫驚仰天、青天の霹靂、驚天動地。新羅がどの言葉を使おうか考える前に、臨也が口を開いた。
「何か手掛かりは無いかと黙って聞いてれば、俺があの化け物を愛してるだって? 俺が愛してるのは人間だけだよ、そこに化け物は含まれない」
 臨也の言う化け物に自分のことも含まれているのだろうな、とセルティは思った。しかし臨也に好かれたところで嬉しくは無かったので、何も反論しなかった。臨也の顔色が明らかに悪いことも関係している。こんな土色の顔をした相手には文句を言う気も起きない。
 そんなセルティの態度を不愉快に取ったのか、臨也はフンと鼻を鳴らした。
「アレは死ぬべきなんだよ。人里に下りてきた熊や猪、いやそこらにいる野良犬や野良猫だってそうだ。人間に危害を加えるであろう生き物はみんな殺される。アレも同じだ。殺処分にすべきなんだよ、化け物なんてさ」
 吐き捨てながら臨也はセルティと新羅の方を見た。二人は何も言わない。臨也の苛立ちの原因を理解しているからだろう。もっとも臨也にはそれが同情に感じられ、余計に苛立ちを募らせたのだが。それを隠すように、なんだつまらない、と臨也が呟く。
「……まあいいや。少し気分が良くなったから歩いて帰るよ。運び屋さんは仕事帰りで口を開くのも億劫なほどお疲れみたいだし。じゃ」
「ちょっ、臨也!」
 口を挟む暇も与えず、一方的に喋るなり臨也は手を振って歩き出した。驚いた様子で新羅が後を追う。こんな短時間で回復するはずがないのだ。
 ――……まったく。
 セルティは相変わらず口の減らない臨也に、ある種の感心すら覚えた。
 あんな状態になっても自分の考えを曲げず意志を貫ける、というのは驚嘆に値するのではないだろうか。それが原因で苦しんでいるとも言える。静雄と同じく、臨也も袋小路に迷い込んでしまったようだ。
 一体臨也の抱える苦悩はいかほどだろうか。そう思えば先程吐かれた暴言すら逆に心配になり、セルティは臨也を心から案じた。
 ――しかし、あれくらいのことなら言われても流せるようになってしまった自分が恐ろしい……。
 もっとも、それくらいのことが出来なければ臨也と会話など出来ないのだろうが。セルティはふうっとため息を吐くように肩を落とし、二人を追った。



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