新宿駅から程遠くない一角、そこに古ぼけた喫茶店がある。色褪せた看板も、入り口の隣にあるくすんだ色のガラスケースの中のサンプル品も、カフェと呼ぶのは似合わない。まさに喫茶店という風貌の店だった。
 新宿という大都会の朝にも関わらず、店内にはゆったりとした時間が流れている。年季の入った内装と年老いたマスターのせいかもしれない。店内にいるのが新聞を手にした中年男性ばかりなのも雰囲気作りに一役買っている。
 そんな店内の隅の方に二人はいた。かたやコートから何から全身黒ずくめの青年、かたや制服の高校生。
 ――おじさんばかりだなあ。
 下手をすれば自分の父親より年上かもしれない男性ばかりの店内で、三好は肩をすくめるようにして座っていた。
 向かいに座る青年は特に何かを気にした様子はなさそうだ。しかし三好が居心地の悪さを感じていることは理解している。ようするに、この折原臨也という青年は徹底的に空気を読まずにそこに座っているのだ。
「どこか喫茶店のモーニングでも食べに行こうよ、三好君さえよければだけど」
 朝の挨拶と共に、伸びをしていた三好に対し、臨也がかけた言葉がそれだった。
 三好が臨也宅を訪れた翌日の朝には、いつも波江か臨也が朝食を用意してくれていた。波江は文句を言いながらも栄養バランスの整った食事を出してくれたし、臨也は朝から作るには一手間かかりそうなメニューを用意してくれた。三好としては、実はそれがひとつの楽しみにもなっていたほどだ。
 それが今朝は喫茶店に行こうと言われたので、三好はうっかり目を瞬かせた間抜けな顔を臨也に向けてしまった。臨也も三好が次に何を言うのか察しがついたのだろう。眉を寄せて困ったような態度で首を軽く傾げてこう言った。
「誰かさんが急に来たおかげで、なんにも用意が無くってね」
 そして三好は臨也に連れられて喫茶店で朝食をとることになったというわけだ。新宿のことは詳しくないし、臨也の眼鏡にかなう店ならハズレはないだろうと踏んだ。しかし、この喫茶店は予想外だった。
 嫌味を言いながらもちゃんと連れてきてくれたことには一応感謝している。だが臨也がこんな喫茶店に入ることなど考えもしなかった。
 三好は控えめに周囲を見回してから、思ったことを正直に口にする。
「臨也さんのことだから、お洒落な隠れ家的カフェでベーグルとか食べて朝活するものだと思ってました」
 まるで女性向けのファッション誌のような言葉の羅列に、臨也は表情を変えずに答える。
「三好君はさあ。俺をマスメディアに踊らされてるOLか何かだと思ってるフシがあるよね。俺はこれでもプロの情報屋だよ? そんな井戸端会議で手に入るような情報なんかと一緒にしないでほしいなぁ」
「でも、臨也さん好きですよね。井戸端会議」
「まあね! ああいう悪意と本性を露にした人間達のお喋りときたら。まったく見ていて飽きないよ」
「そうだろうと思いました」
 何故か得意気に言う臨也に、三好は言わなきゃよかったとばかりに大袈裟に溜め息を吐いてみせた。おおかたこういった返事がくるのは予想していたが、こうも自信たっぷりに言われてしまえば返す言葉も無い。ただ呆れるばかりだ。
 店員の女性が注文を取りに来て、臨也は勝手にモーニングセットをふたつ頼んだ。「飲み物はコーヒーでよかったよね?」という確認らしき言葉は一応あったが、三好の意見ではなく自分の持つ情報を確認しただけのようだ。
 もともと三好は臨也にくっついてきただけなので、特別意見があったわけではない。臨也が頼むならきっとそれが美味しいんだろう、と適当ともいえる根拠をもとに三好は黙って縦に頷いた。
 店員が戻るなり、店の奥からは早速食パンを焼く音や湯を沸かす音が聞こえてきた。三好は手持ちぶさたになって、喉も渇いていないのに水の入ったグラスを何度も口に運ぶ。
 なんでこんな喫茶店で、しかも臨也と向かい合って朝食を食べなければならないのか。まだ居心地の悪そうな三好が臨也の様子をうかがうと、臨也は思った通り上機嫌だ。三好とはまったく逆である。三好はプイッと視線を外し、店の奥の厨房に目を向けたまま繰り返し水を飲んだ。
 三好が臨也に向ける言動は他の者に対するそれと比べて、どこか冷たい。辛辣ともいえる。普通の人間なら自分が嫌われているのかと反省したり怒りを覚えるだろう。しかし臨也はそれをしない。それどころか何故かそんな三好の反応に逐一大喜びしているのだ。三好にはそれが不思議で仕方なかった。
 だからといって三好も臨也を嫌っているわけではない。嫌いな人間と朝食をとろうなどとは思わないだろう。臨也はそれを知っている。つまり臨也は、三好が自分を嫌っていないという傲慢な確信を持った上で、三好の一挙手一投足に喜んでいるのだ。なんともおめでたいことだが、三好は不思議とそんなところも嫌いではなかった。
 横目に臨也の様子をうかがうと、臨也はこちらをじっと見て微笑みを浮かべている。目が合わないように注意して三好は厨房に視線を戻した。
 ――何がしたいんだ。
 三好は頭の中でそんな言葉を臨也に向ける。何故そんな目でこちらを見ているのか、もちろん臨也から答えが返るはずもなく、三好は思考を巡らせるしかない。
 臨也の意味不明な視線に不快や憤りを感じているわけではない。ただひたすらに意味が分からないというだけだ。その答えが見つからないから、三好は余計に居心地が悪いのだ。朝の空気とは真逆の重い雰囲気に三好は辟易する。いや、このくらい憂鬱なほうが都会の朝の空気らしいといえばそうかもしれない。臨也が朝早くから妙に明るい空気なのが異常なのだ。
「お待たせしました」
 この空気がこのまま続くなら嫌でも口を開いて臨也にその理由を尋問しなければならない。そう思っていたところに運良く店員の女性が現れた。息苦しさから解放された三好は、思わず安堵のような溜め息を吐いて皿を受け取った。
 皿には厚切りのトースト、ポテトサラダ、ゆで卵が乗っている。なかなか豪勢なメニューだった。
「このポテトサラダが美味しいんだよ」
 聞いてもいないのに、臨也はそんなことを口にした。
 どうやらポテトサラダはこの店の自家製らしいと知り、三好は臨也がこの店を選んだ理由をやっと理解する。臨也はこういった料理を通して、それを調理した人間を観察しているのだ。臨也の趣味は褒められたものではないが、老舗喫茶店のマスターが作ったポテトサラダと言われるとそこに何かしらのこだわりが見える気がして、今回ばかりは三好にもその気持ちが理解できた。
 実際、ポテトサラダは美味しかった。バターのきいたトーストも、丁度いい加減のゆで卵も、三好が想像していた以上の味だった。さすが臨也が連れてきただけのことはある。
 少しは見直したので、三好はトーストをかじりながら臨也を見た。お礼のひとつくらい言っておくべきだろうと思ったからだ。しかしすぐにやめておけばよかったと後悔する。
「…………」
「…………」
 何故か臨也は三好を見ていた。おかげでばっちり目が合ってしまい、意図せず見つめあうような状態になってしまった。たまたま目が合ったというわけではない。おそらく食べている間もずっと三好を見ていたのだろう。料理を待っている間だってそうだったではないか。
 ――何がしたいんだ……。
 三好は再度、元のところに戻ってきてしまった。せっかく美味しい朝食に意識が向いていたのに台無しだ。気になり始めると止まらない。
 それでも三好は、けっして怒っているわけではない。いまだに臨也の考えが理解できないでいるだけだ。何がしたいのか、何が言いたいのか、それが読めない。臨也はこちらを見ているのだから、何もないなんてことはないだろう。では何が目的なのか。
 三好が眉間にシワを寄せてコーヒーを飲んでいると、臨也が可笑しそうに笑って、テーブルの端にあった砂糖を取ってくれた。そういう意味じゃないんだけど、と三好はますますシワを深く刻む。臨也も無論分かっていてやってるのだろう。完全に遊ばれている。
 臨也も食べ終わったのを確認してから、三好はコーヒーカップを置いた。始めに見たときはかなりのボリュームだと思ったが、食べてみるとあっという間だった。トーストがふわふわしていて厚みを感じなかったことや、臨也の言う通りポテトサラダが美味しくてすぐに食べきってしまったこともある。コーヒーも丁度いい苦さだった。
「言っただろう? 美味しいって。君さあ、最初についてきた時に『大丈夫かな?』って顔してたよね。古い店だし、客層も違うから。ちゃんと美味しい朝御飯が食べられてよかったじゃない。お店も人も見た目だけで判断しちゃいけないってことと、もう少し俺のことを信頼してもいいってことが分かってよかったねえ」
 三好がコーヒーを飲み終えるなり、臨也は矢継ぎ早に喋り始めた。つい先程まで無言だったのを取り返すかのようだ。
 勝ち誇って話す臨也に、三好はぐうの音も出ない。臨也には珍しくわりとまともなことを言ってるからだ。そうすれば三好が反論できないことを見越してだろう。
 ――もしかして、昨日いきなり訪問したことを根に持っているのかな。今朝もそれを責めるようなこと言ってきたし。
 臨也がこんな行動に出た理由は今のところそれくらいしか思い当たらない。ものは試しで、三好はとりあえず謝ってみることにした。
「分かりました。急に訪問したことは謝ります、すみません。臨也さんの都合も考えないで、本当に急に遊びにいってしまって」
 幸い、それは正解だったようだ。臨也が少し目を細める。
「まったくだよ。俺はこう見えて結構忙しいからね。君みたいにアポ無しでいきなり来られると仕事の邪魔なんだけど」
 その反応を見て、三好はあくまで神妙な態度を続ける。この先のどこかに臨也の視線の意味があるような気がしたからだ。直感に過ぎなかったが、それが正しいと三好は確信していた。
「そうですよね。確かに僕、臨也さんにちょっと甘えてたかもしれないです」
「そうそう、いくら子供といっても図々しいのはよくないよ。人んちに上がり込んで、呼んでもないのに泊まって、ご飯までご馳走になっていくなんてさあ」
「すみません」
 三好はぺこりと頭を下げる。謝罪ではなく、笑いをこらえるためだった。
 なんだ、そういうことか。やっと合点がいった三好はすっと頭を上げて、ようやく笑顔をみせた。
「でも、臨也さんが作ってくれるご飯、大好きですよ。今日食べたのも美味しかったけど、やっぱり臨也さんが用意してくれるのを楽しみにしてたから、今日はちょっと残念です」
 臨也は表情を変えなかったが、先程まで五月蝿かったのが嘘のように黙りこくっている。今度は三好が上機嫌になる番だった。
「急に行ったのは本当に悪かったと思ってます。でも、急に臨也さんに会いたくなって、臨也さんのご飯が食べたくなったんだから仕方ないですよね」
 臨也が妙に喫茶店のモーニングを推してきていたのはこういう理由だったのだ。まさか三好にたったそれだけのことを言わせるためにこんな回りくどい方法をとるとは。三好は呆れながらも、そんな臨也の望み通りの言葉を言ってやった。
 臨也は満面の笑みの三好を一瞥するなり、にわかに立ち上がった。何をするのかと思いきや、伏せられていた伝票を手に取り、臨也の足はレジのほうへと向かう。
「そんなにお世辞を並べて心配しなくても、お金はちゃんと俺が払うから安心しなよ。まさか君みたいな子供相手に割り勘なんて、俺がするはずないだろう?」
「そうですか、ごちそうさまです」
 三好もさっさと鞄を持って立ち上がり、そのあとに続く。自分も出すと言いたいところだが、それをすると不機嫌にさせそうなのでやめておく。
 ぶつぶつ文句を言ってはいるが、臨也も三好が訪ねるのを拒否しているわけではない。三好もそれはちゃんと分かっている。ただ、また文句を言われると面倒なので次回は先に連絡してからのほうがよさそうだ。この分ならきっと次の晩餐は、いつも以上に手の込んだ臨也の手料理になるだろう。



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