俺の周りには喋れない奴が二人いる。
一人はもともと口の無い奴。
もう一人は、
「C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5ーっ!」
言葉の話せない奴だ。
痴話喧嘩.mid
「F5 F3 F3、B3 C#5 C#5 F#5 A3 F#4 G#3 F3 F#4 A3!」
「……手前か」
不協和音に反応して振り向くと、案の定、そこには奴がいた。
白ずくめの服にピンクのアクセント。
自分から話しかけたくせに、服と同じ色のヘッドフォンから流れる音楽は止めない。
そんな失礼なこいつをサイケ、と俺は呼んでいる。
意味不明な音を発音するだけでも十分おかしな奴だが、性格は輪をかけて酷い。
頭のネジがぶっ飛んでるとか、そういう類の言葉はこいつの為にあるのかもしれない。
「F#4 A3 F#4 A3 C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5っ!
C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5 C5 C5 A3 F#3 F3!」
サイケは俺の服を引っ張りながら早口に32分音符でまくし立てた。
何度も出てくる同じ音は俺の名前らしい。
音に規則性があろうとなかろうと、興味が無いしどうでもいい。
「C5 B4 C#5ー B3 F3ー A#4 C#5っ!」
「おい」
何も言わない俺に痺れを切らしたのか、サイケは俺の前に周るといきなり首に抱きついてきた。
ぶら下がってる、が正しい。
重いので、仕方なく腰と脚を支えた。
「手前よォ、ここがどこだか分かってんのか?」
「A3ー?
……G#3 G4 C#5 A#4 G4、D#4 F3 F#4 F3 F3?」
何が楽しいのか、ニコニコ笑ったままサイケは答えた。
ヘッドフォンからは音楽を垂れ流しているくせに、ちゃんと聞こえているらしい。
伸びてるコードを引き千切ってやろうかと思ったが、今はそれどころじゃない。
サイケの言う通り、ここは道路のド真ん中だ。
そんな目立つ場所で何が楽しくてこの野郎を抱き上げなきゃならねえんだ。
俺の舌打ちを気に留める様子も無く、サイケは何かを指差す。
サイケの指差す方向で歩行者用の信号が点滅を始めていた。
「信号変わるから降りろ」
「C4 G4 A#4 F3!
C#4 B4 G4 B3 F3 F#4 F3 C#4 C5 G4 B4 C4 C#4 F#4 B3 G4 C#5 D#4 F3 D#5 F3 G3 G3 C4 F3 C#5 F5 G4!」
「降、り、ろ」
「C4 F3 F5 F3 D#4 C#5 C4 F3 F5 F3 D#4 C#5ー」
睨もうが手を離そうが、サイケに降りる気配は無い。
そうこうしてるうちに信号は赤になり、車からクラクションが飛んだ。
サイケはその音を真似て笑っている。
まともな奴ならそこで慌てて渡るだろうが、サイケは残念ながらまともじゃなかった。
苛立つドライバーを見てケラケラ笑いこけているのがその証拠だ。
「C#5 D#5 F3っ!?」
さすがにカチンときた。
カチンときたので、俺はサイケを無理矢理引き剥がした。
そのまま置いて帰るとおそらく交通の妨げになるので我慢する。
代わりに、このヘラヘラしている野郎を肩に担ぎなおして、さっさとどかすことにした。
驚いたのかサイケは一瞬笑みを崩した。
いい気味だ、と思った。
「……っF3 C4 F3 C4 F3 C4 F3 C4 F3!
C4 F3 F5 F3 C#4 C4 F3 F5 F3 C#4ー!」
「……手前、ちょっと黙ってろ」
しかしそう思えたのは本当に一瞬だけだった。
横断歩道を突っ走る俺の背をペシペシと叩きながら、サイケがまた笑い出したからだ。
まるでジェットコースターにでも乗ってるような態度だ。
サイケは分かっているのかいないのか人の耳元で笑い続けている。
耳障りな笑い声を聞いて、担いだのは失敗だったと後悔した。
はっきり言って我慢の限界だった。
横断歩道を渡り、そのまま走り抜ける。
もう一度このやかましいのを黙らせてやる。
「F#4?」
俺がすぐにでも降ろそうとするに違いない、と思っていたらしいサイケは不思議そうな顔をした。
しかし降ろされないと知るや否や、ますます調子に乗って笑い出した。
通行人の視線が刺さる。
着物の男が大爆笑してる男を担いで走っているのだから、当然といえば当然だ。
ああ、苛々する。
俺はサイケを担いでいるのとは反対の手で懐から鍵を取り出した。
サイケも周囲を見回し、俺がどこに向かっているのか気付いたようだ。
「F#4 F3 F#4 C#4 F#4 F3 F#4 C#4!?
C#4 A3 D#4 F3 A3 A#4 C#5 F#4 G4?」
「あァそうだよ」
ぶっきらぼうに答えると、サイケがバタバタ暴れた。
無視して家まで走り、鍵を開ける。
担いだサイケに扉を閉めさせ、無理矢理ベッドに放り投げた。
「何のつもりだ。あァ?」
こいつの喋り方に則るなら、俺の声はさっきよりも1オクターヴ低くなっていたと表現出来るだろう。
それはサイケの顔から笑みが消えたことからも明らかだった。
身の危険を感じたのか、飛び起きようとしていたサイケに馬乗りになってそれを封じる。
苦しそうなサイケを見て、俺は一度落ち着こうと深呼吸をして言った。
「いいか。
俺は暴力が嫌いなんだ。
なんでか分かるか?
平和に暮らしてェからだよ」
だから、と言いかけた俺を、サイケの笑い声が遮る。
この状況でこんなに可笑しそうに笑えるとは、本物の馬鹿らしい。
「F3 C4 F3っ!
F3 C4 F3 C4 F3 C4 F3っ!
B4 G4 C#5 G4 F4 G4 C#5 F#4 F3 A#4 F3 B4 G4 F#4 G4 D#4 F3 D#4 D#4 G4 C#5 F5 F3 F4 A3 C5 F3 A#4 F3!?
C4 A3 C#4 D#5 F3 F#4 C#4 C4 F3 C4 G4 G#3 G4 C5 G4 G4 C#4 D#4 C#5 A#4 F3 C#4 F4 A3 G#3 F3 C5 B4 C#5 F5 G4!?」
減らず口を叩きながらヘラヘラヘラヘラと……。
そう思った瞬間――プツン、と何かが切れる音がした。
「……二度と笑えなくしてやろうか」
自分の思った以上に苛立ちと殺意の篭った声は、サイケを黙らせるには十分だった。
堪えきれずに殴ったベッドが嫌な音を立てる。
暴力は嫌いなんだ。
嫌いなのに。
俺はサイケを睨んだ。
きっと射殺すような目だっただろう。
「C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5……」
サイケは相変わらず笑っていた。
ただ、今までのにやついた笑いではなく、泣いているようにも見える笑顔だった。
そのわけの分からない顔で、サイケは俺を呼ぶ。
「――っ」
その声で、ようやく俺は我に返った。
自分は何をやろうとしていたんだろう。
サイケを殴り殺す?
そんなことをしたら馬鹿のサイケ以上の馬鹿だ。
「……悪い、ごめんな、サイケ」
サイケを解放して、それだけ言うのがやっとだった。
それで許してくれるわけがないと覚悟していたのに、サイケはふるふると首を横に振り、俺に抱きついてくる。
許してくれるということだろうか。
サイケはにっこりと満面の笑みを浮かべて、まるで犬にするように俺の頭を撫でた。
許してくれるのは有難いが、そこまでしてくれとは言ってない。
俺は少し不機嫌な顔をした。
サイケは余計にニヤニヤ笑っている。
なんだかむかついたので、むかつくついでに不満をぶつける。
「お前今日ヘラヘラしすぎだろうが」
「B4 G4 C#5?」
どうやら、というかやはり、というか。
サイケは何故俺がここまで怒っているのか理解していないらしい。
俺はサイケの両頬を引っ張りながら、自棄になって大声で叫んだ。
「ああそうだよ!
いいか、一回しか言わねェからよーく聞け。
誰彼構わずスマイル振りまいてんじゃねえよ!
例えばあのドライバーとか、万が一お前に惚れたりして拉致られたらどうすんだ!?あァ!?
次に俺以外に笑いかけたらぶっ殺す!」
始めは頬を引っ張られて嫌がっていたサイケも、言い終わった頃にはきょとんとしていた。
今日一日イラついてたのはそんなくだらねー理由だよ。
おそらくサイケは今日一番の大爆笑をするだろう。
そして「本当に馬鹿だねえ」とかなんとか言って、明日からはますます張り切って通行人に笑いかけるに違いない。
そういう奴だ。
「……B4 G4 A#4 A3 C4 F3、」
「あ?」
「B4 G4 A#4 A3 C4 F3 C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5 B3 F3 D#5 F3 A#4 C#5 C#4 F5 G4!」
「ああ!?」
俺が悪い?
手前がヘラヘラしてんのが俺のせいだって?
意味の分からない理由に俺が思わず手を放すと、サイケは逆に俺の胸倉を掴んでわめきたてた。
「C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5 B3 F3 F#4 C#4 F3 C#4 B4 C#5 B3 C#4 F#4 G4 D#4 C#4 F4 G4 F#4 G4 F#4 F3 F#4 D#4 F3 D#4 C#4 A#4 C#5 D#4 F3 A#4 F3!
C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5 C4 F3 G4 A#4 A3 F#4 G4 D#4 G4 C#4 F#3 C#4 C5 G4 G#3 F3 C5 C5 A3 F4 C#4 B4 A3 C5 G4 D#4 F3 F#4 F3 D#4 F5 F3 C5 G4 A#4 F3 A#4 A3 C5 F3 A#4 F3 G#3 G4 C#5 B4 C#5 F#4 F#4 G4!?」
俺が日常的に着物を着ているのは、単に好みの問題もあるが、一番の理由はサイケだ。
本当に日常的に着物を着るようになったのはサイケに「着物似合うね」と言われて以来のこと。
しかしサイケは、逆にそれが気に入らなかったのだという。
それも、俺が先程言ったのと同じ理由で。
なんとなく気恥ずかしくなり、俺は頭をかいた。
サイケも同じく手を放し、目を逸らしている。
気付くと部屋の中は無音になっていた。
サイケのヘッドフォンからあんなに聞こえていた音すらしない。
いつの間にか再生を停止していたようだ。
それだけ真剣に話を聞いてくれた、ということだろうか。
「C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5!」
「うぉ!?」
サイケ、と呼ぶ前に飛びつかれてベッドに倒れこむ。
まるで猫かなにかのように、サイケは俺に擦り寄ってきた。
重い、と言っても離れようとはしない。
「C5 B4 C#5 B3 F3 A#4 C#5ー」
「うん?」
「D#4 F5 G4 C#5、C5 G4 F4 F3 C5 C5 A3 D#4 C#5 D#4 F3 A#4 F3」
「言われなくても帰さねェよ」
俺の言葉にサイケはふにゃんと笑った。
その顔が喉を鳴らす猫に似てあまりにも締まりがないので、俺は頭をぐしゃぐしゃ撫でてやった。
サイケは気持ちよさそうに目を細めている。
ますます猫に似ているな、と思った。
「その顔、他の奴に見せたら殺す」
サイケの顔を見ていたらそんな言葉が自然に出た。
暴力は嫌いだ、と言っておきながらこれはどうなんだろう。
サイケも同じことを思ったらしく、ケタケタ笑った。
「笑うな」
照れ隠しに言った言葉がツボに入ったのか、サイケは人の腹の上で笑い転げている。
笑って欲しいと言ったり、笑うなと言ったり、確かにややこしい。
ただ、内心はまあいいかと思っていたりする。
サイケが笑顔ならそれでいいか、と。
もちろん、俺の前だけでの話だが。