誰かが僕を呼んでいた。
僕はいつも通りのパーカーなのに、あっちはモコモコしたコートで立っている。
僕が寒さに強いのか、向こうが寒がりなのかは分からない。
言い忘れたことがあるんだって?と黒いコートの男が言った。
そうだ、言い忘れたことがあったんだ。
それは、と白いパーカーの僕は言いかけた。
そこで世界は色が変わって、気付くと僕の部屋だった。
今のは夢だったようだ。
外はまだ暗い。
携帯の画面は五時過ぎを示していた。
早起きしたところで今日は休日だし、もう一度寝たって大丈夫だろう。
僕は布団を被った。
そこでふと、さっきの夢を思い出す。
――言い忘れたことってなんだったんだろう。
特に覚えは無いが、何かあっただろうか。
所詮は夢だ。
しかし、夢は自分の記憶を整理するために見るものらしい。
ということは整理した結果、言い忘れがあることに気付いた……ということもあり得るかもしれない。
――これはもしかしたら、面白い結果が出るかも。
もしも本当に言い忘れたことがあれば、表面では忘れていても無意識の部分では覚えていたということだ。
その事実は今後、人間を観察する上で役に立つかもしれない。
早速確かめるべく、僕は携帯の履歴からとある人間の名前の番号に電話をかけた。

『……何?』

長いコールの後、携帯から不機嫌な声が聞こえてきた。
気怠そうに掠れた声を聞かなくても、さっきまで眠っていたことは明らかだ。

「おはようございます、臨也さん」
『おはよう、三好吉宗君。
ところで君んちの時計は壊れてるのかな?
それとも君は今海外旅行中だっけ?』
「僕の部屋の時計はもうすぐ五時半ですが。
電波時計だから間違いないですよ」
『そう……俺の方もそんな感じだよ』

僕はそこでこらえきれずに笑った。
折原臨也は実に愉快な言動の人間で、機嫌の良し悪しに関わらずこんな会話は日常茶飯事だ。
僕は挨拶代わりだと思っている。

「ところで臨也さん、今お暇ですよね?
今から行っても大丈夫ですか?」
『眠れるのはやらなければならないことが無いから、と解釈するならそうだろうね。
睡眠は健康を維持するために必要な行為だ、と考えるなら俺は休むのに忙しいということになるし』
「要するに時間はあると」
『どうせ何を言っても来る気みたいだし、勝手にしなよ』

はい、仰る通りです、勝手にします。
僕は満面の笑みで答え、電源ボタンを押した。
そして適当に身仕度を整える。
何だかんだ言って押し掛けるのを許す辺り、折原臨也は不思議な人物だ。
彼は裏稼業の人間なのだからもう少し警戒したっていいだろうに。
自分がそれだけ信頼を勝ち得ているということだろうか。
或いは、彼も僕が何故こんな時間に押し掛けようとしたのか興味があり、そこから何らかの情報を得るためか。
……後者だろう。
信頼なんてものは、僕と彼の間には存在しないに違いない。



鼻歌を歌いながら上がり込むと、折原臨也は朝食を作っていたところだった。

「おはよう。
もうすぐ出来るから座って紅茶でも飲んでなよ」

お言葉に甘えて、僕は定位置となったソファーに腰掛けた。
テーブルには夜明け前の寒い中を歩いてきた身体には丁度いい温かさの紅茶が置かれている。
気が利くこと自体は意外じゃないが、僕に気を利かせるという意味ではとても意外だ。
何か裏があるんだろうか。

「すみません、こんな朝早くに」
「いいよ別に。
俺も君に用があったしね。
……はい、出来たよ」

僕に用?
聞き返すことを阻むように、折原臨也はフレンチトーストの乗った皿を置いた。
焼きたてのそれからふわりと甘い香りが広がる。

「臨也さんって料理も出来るんですね」
「フレンチトーストなんて浸して焼くだけだよ」

素直に感心すると、折原臨也はそう言って肩をすくめた。
朝からわざわざ二人分のフレンチトーストを用意するなんて、はっきり言って手間だ。
現代人には珍しい、料理に凝るタイプなのだろうか。

「で。
こんな朝から来るなんて、電話じゃ話せない何か大事な話でもあったのかい?」

フレンチトーストにかじり付いたところで、もっともな質問を投げかけられた。
さて、どう答えるべきか。
素直に答えてもいいが、動機については伏せるべきだろう。
夢で見たから、なんて言えばきっと鬱陶しいことを嘲笑と一緒にぶつけられるに決まっている。
「へえ、君は夢に見るほど俺に会いたかったのかな?」……うん、言いそうだ。
僕は、何か言いたいことがあったが忘れてしまったので、会えば思い出すかと思った、と答えた。

「それならもう少しこっちの都合ってものを考えて欲しいんだけどね。
いや、別にいいんだよ?
俺も今日は早起きの予定だったし、夕方くらいに君に会おうと思っていたのが早まっただけだ」

折原臨也はまったく別にいいとは思ってなさそうな口調で言い、紅茶を口に運んだ。
今のところ、特に彼に頼まれていることは無い。
ということは用とは新しい依頼のことだろうか。
それを問おうとしたところで、折原臨也は立ち上がり、窓の方へと足を運んだ。

「ほら、夜が明けてきたよ」

何をはぐらかしているのだろう。
少しムッとしつつ、僕も同じように隣に並んで外を見た。
ここは高い場所にあるので、とても眺めがいい。
ガラスの向こうには朝焼けに染まる新宿が広がっている。

「綺麗ですね」

隣で外を眺めている彼はどんな反応を求めているのだろう。
それを読み取ることが出来なかったので、僕は適当な感想を述べた。

「でも、君は引っ越しでいろんなところに行ってるんだろう?
東京とは違って、高層ビルみたいな遮るものが無い場所で見る風景の方が綺麗なんじゃないの?」
「確かに田んぼしか無い場所で見る朝日も綺麗です。
でも僕は、この人で溢れた東京で誰も人間が存在しない時間と、その間に人知れず昇る朝日が結構好きですよ」

それは問い掛けに対する、僕の素直な答えだった。
東京に人間が存在しない時間なんてものは、二十四時間営業の店舗が増えた今日、存在するわけがない。
それでも限りなくゼロに近付いていく、もっとも人の少ない時間というものは実在する。
それにあたる深夜や早朝の、人のいない何となく現実離れした東京を僕は気に入っていた。

「アハハハハ」

僕の言葉に対し、折原臨也は心の底から可笑しいといったふうに笑った。
彼の言葉を借りるなら「人間を愛している」僕が、人間のいない時間が好きだと言ったのは確かに矛盾しているな、ということに気付いたものの、そんなに面白い話ではないだろう。

「何か可笑しなことを言いましたか?」

僕は敢えて冷めた口調で聞いてみた。
折原臨也は「そういうわけじゃないんだけどね」と前置きしてから口を開いた。

「淋しく明けて行く 東京の空が好きだ――なんて、まるで何年もここで暮らしているみたいに言うからさ。
君も立派な東京の、池袋の住人なんだと思ってね。
……そんな君ならきっと、天国にも行けるはずだよ」

僕は目を見開いた。
前半から話が飛躍しすぎていることと、折原臨也からおおよそ似合わない単語が出たこと。
天国……ですか、と僕が聞き返せば、折原臨也はどこか無邪気に笑って言葉を続けた。

「うん、俺の用事っていうのはそれでね。
君は天国ってあると思う?」

これはどういうことだろう。
僕は折原臨也をもう少しリアリストかと思っていたのだが。

「それは宗教の勧誘ですか。
それとも映画なんかでよくある、イエスとノーのどっちを答えても殴られるアレですか」

僕は思わずケラケラと笑った。
折原臨也は本当に飽きない人間だ。
わざわざ僕を訪ねてまで聞こうとしていた質問が天国の有無だとは!

「別に俺は神に縋らなくても生きていけるし、君の上官じゃないから殴ったりもしないよ。
ただ君は答えてくれればいい。
ちょっと君の答えに興味があってね」
「そういうことなら、そうですね……。
僕はどうでもいいです。
まあ存在したっていいんじゃないですか。
首無しライダーだって実在したし」
「どうでもいい、か……。
どうしてそう思う?
まさか理由も無くそう思ってるわけじゃないだろう?」

僕は首をすくめた。
この話題は彼にとって、何か重要なことのようだ。
答えるくらいなら損はしないだろう。
僕は特に表情を変えずに、いつも通りの調子で言った。
天国とやらに行ったって、そこにいる人間はきっとダラダラと過ごしているに違いない。
もう死ぬことは無いから、限られた人生という時間に縛られることも無い。
各々が勝手に自分のペースでやりたいことだけをやる。
飢えて死なないなら働く必要も無い。
そんな人間達を見て、果たしてそれが面白いのだろうか。
それならば自分も苦しくても、様々な人間の感情が渦巻くであろう殺伐とした地獄の方が、僕にとっては天国だ。

「本当に君は面白いよ。
確かに人間は楽をすれば堕落するし、苦しめば成長する……なるほどね。
死んでも他人のことを考えられるなんて、君は実に心が広いんだねえ」

それはどうも、と僕は答えた。
最後の皮肉に、あなたほどじゃないですよ、と返してやりたくなる。

「うん、分かった。
どうもありがとう」

折原臨也は勝手に納得したように頷いた。
僕は無視してソファーに戻り、残りのフレンチトーストを平らげる。
そんな僕の行動を不機嫌だと取ったのか、彼は苦笑しながら僕の隣に座った。

「やだなあ、そんな顔しないでよ。
時期が来たら君にもちゃんと教えてあげるから。
……今はまだ、君に話せるような時期じゃない」

何か内緒話をするように、折原臨也は僕の耳に顔を寄せ、声量を抑えた。
しかし、引っ掛かる話だ。
この口振りではまるで、彼が天国への行き方を知っているようではないか。
いくら彼が優れた情報屋であっても、まさか死んだ後の話など分かるはずもない。

「その時期が来れば、臨也さんが僕を天国に連れて行ってくれるって?
臨也さんが一緒なら、きっと飽きないでしょうけど」

浮かびそうになった嘲笑を隠して、僕はまた笑った。
時期、というのはどういう意味だろう。
彼が死ぬまで待て、という意味ならご一緒するのはお断りだ。

「時期じゃなくても、今聞きたいんですよ。
教えてもらえませんか?」

僕は懇切丁寧に問うた。
少し待ったが、折原臨也は渋るように唸っている。
気にはなるが、いずれ教えてもらえるのなら今すぐに聞き出すこともないか。
情報屋の彼が「教えてあげる」と言っているのだし。
僕は適当に納得し、ポケットからハンカチを探した。
フレンチトーストを食べた手を拭こうとしたが、生憎忘れて来てしまったらしい。

「すみません、臨也さん。
拭くもの頂けますか?」

僕は出来るだけ申し訳なさそうな顔で手を差し出した。
折原臨也は返事をせずに、僕の手を掴んだ。
そして彼がすっと俯いたかと思えば、気付くと僕の指は生温かいものに包まれていた。
濡れたそれがぬるりと指に絡み付く。

「なっ……!」

思わず手を引っ込めようとするとカツンという音がやたらと大きく響いた。
考えるまでもなく、爪が歯に当たった音だろう。
折原臨也は僕の指に付着していた砂糖を一通り舐め終えると、口を離してニヤリと笑った。

「……どういうつもりですか」
「別に。
君がふてくされてるみたいだったから、ちょっと慰めてあげようと思って」

彼は少し俯いたまま、上目遣いで僕を見つめて言った。
思わず口から溜め息が出る。
さっきのはそういう話だったんですか、真面目に答えて損した。
僕が悪態をつくと、折原臨也は愉快そうに笑った。

「さあ、どうかな。
君は結構乗り気みたいだけど?」

あまりに可笑しなことを言うので、僕は思わず吹き出した。
最初からこっちが目的だったんじゃないか。
僕は余計ベトベトになってしまった指で、彼の唇をつついた。

「じゃあ、嘘で誤魔化すみたいなくだらない話はもう終わりにして、お互い素直になりましょうか」

僕はすました顔をして、折原臨也の上に覆い被さった。
彼は細いし、生憎僕も小柄だったのでソファーに収まる。
わざわざ移動するのも面倒だし、何も言ってこないなら向こうも同じだろう。
勝手にそう解釈し、僕は白すぎる首筋に吸い付いた。
簡単に痕が残るのが結構面白い。
敢えて目立ちそうな位置ばかり付けてみたが、彼は何も言わなかった。
てっきり抵抗するかと思ったのに、拍子抜けだ。

「んっ……。
……ところで、結局言い忘れたことは思い出せたの?」

折原臨也は、僕の頭をまるで子供扱いするように撫でながら、そんなことを思い出したように口にした。
一瞬目が点になったが、言われてみればそのために来たのだった。
完全に忘れていたが、思い出していないことは変わりないので「いいえ」と答える。
僕の答えを聞いた折原臨也はフンと鼻を鳴らし、挑発的に笑みを浮かべた。

「案外、君もこういうのが目的だったんじゃないのかなあ。
俺の勝手な憶測だけどさ」

僕が?
首をひねってみたが、やはり何も思い出せない。
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

「さあ、どうでしょう」

僕は先程彼が使ったものと同じ台詞を使用した。
そして、自分で宣言した通り素直になって、言葉を付け足した。

「どっちでもいいですよ、もう。
……先に誘ったのは臨也さんですし」

そう、どっちでもいい。
どうせ今使うような甘い言葉の類ではないだろうし、例え重要な用件だとしても、今伝えたところで無意味だろう。
今は自分の下で不敵に笑っている男にだけ集中しておけばいい。
僕は彼の頬にキスを贈った。
それに応えるように、折原臨也が僕の背に腕を回してくる。
黙っていれば可愛いところもあるものだ。

「思い出せたらまた後で教えてあげますよ」

僕は思ってもいないことを言い、たった今唇を落とした頬を撫でた。
返事は無かったが、頬を撫でる指をぺろりと舐められたので、勝手に了解と取ることにする。
当初の目的からはかけ離れたが、こういうのも悪くはないか。
僕はもう考えることを放棄し、今度は唇に噛み付くように口付けた。



Back Home