ボロいアパートの重い扉を開けると、奥からバタバタ走る音が聞こえてきた。
俺は右手に持っていた箱を適当に隠し、何事もなかったような顔を浮かべておく。
その後すぐにエプロン姿のサイファーが壁の向こうから顔を出した。

「おかえり」
「ただいま」

おかえり、と言われて反射的にそう言ったが、俺は別にここを自分の家だとは思っていない。
お前んちだろ、と言うのも少しおかしい。
どうも俺達は一ヶ所に留まれない性分らしく、各地を転々としているからだ。
一応名義は俺になってるが、居座っているのは基本的にサイファーだ。
ここもサイファーの仕事が終わるか、飽きるかすれば出て行くことになるだろう。
しかし……。
俺はサイファーの姿をまじまじと見た。
これほどウサギのワッペンが付いたエプロンの似合う奴も珍しい。
なんせ十年たっても相変わらずの童顔だ、実は年齢をごまかしてるんじゃないだろうか。

「うっ……!?」

突如、奥のキッチンから異臭がし、俺は思わず鼻を押さえた。

「お前、何か作ったか?」
「ん」

……エプロンをしているんだ、聞かなくても分かる。
絵を塗る為にエプロンをしているんだと思いたかったが、どうやらそうはいかなかったようだ。
サイファーはキッチンを指差して、どうだ、とでも言いたげな顔をした。
指の向こうには鍋がある。
息を止めて蓋を開けると、鍋の中では少し紫がかったマグマに似た液体が、ボコボコと不気味な音を立てていた。
どう考えても、人体には有害だろう。
俺は投げつけるようにして蓋を置き、異臭の出所からさっさと離れた。

「悪い、あれが何か分かるように説明してくれ」

そもそもあれは食い物か?
何か科学の実験でもしてたんじゃないのか?
あの凄まじい臭いで気分まで悪くなってきた俺は、早口でサイファーにまくし立てた。

「……?」

サイファーは首を傾げながら、エプロンのポケットからメモ帳を取り出した。
昔より喋れるようになったとはいえ、まだ長くは喋れない。
そんな理由で、相変わらずサイファーは紙とペンを持ち歩いている。
今更煩わしいとも思わない。
むしろベラベラ喋る方が、悪い物でも食ったんじゃないかと心配になる気さえする。

『パンプキンスープ。
今日はハロウィンだからな、ハロウィンといえばカボチャだろ。
お前は気付いてないみたいだったから俺が代わりに作ってみた』

俺は記憶を辿る。
この世に赤紫色のスープが出来るカボチャは存在していただろうか。
そうじゃないなら、あれはどう見ても毒でも入ってそうな色だ。
俺はそこまでサイファーに恨まれてるんだろうか。

「…………」
「食う?」

サイファーがマグマとヘドロの悪いところを兼ね備えたような液体を、スープ用の皿に掬った。
皿からジュウッと何かが溶けるような音が聞こえたが、俺は気のせいだと思うことにした。
こいつの料理は美味いとか不味いとかを超越した何かだ、少なくとも料理では無い何か。
サイファー本人にはその自覚が無いのがまた辛い。

「……なあサイファー。
スープはいいから玄関行って来い」
「なんで」
「いいから、ほら」

このままだとあのヤバそうな何かを飲まされてしまう。
俺は先程箱を隠したあたりを指差し、なんとか誤魔化すことにした。
サイファーは渋々といった様子で鍋の傍を離れ、玄関に向かう。
上手くいけば、サイファーはスープのことなんて忘れてくれるはずだ。

「どうだ、サイファー。
何か見つかったか?」
「ん?
……あ……!?」

サイファーはしばらく俺の隠した箱を探していたが、やがて目を輝かせながら帰って来た。
無事に見つかったらしい。
こいつなら、箱のロゴだけで中身が分かるだろう。

「これっ……!」
「帰りに見かけて、お前好きそうだと思ってな」

帰りに通る道にある、有名店のプリン。
高かったが、まあたまにはこういうのもいいだろ。
こいつも喜んでるし。

「それでな、サイファー……」

……喜んでるのはいいんだが、喜び過ぎてるのはどうなんだ。
サイファーは俺のことなど目に入っていない様子で、プリンに夢中になっている。
俺が勝手に買って来たんだ、「礼くらい言え」なんて言うつもりは無い。
何よりプリンひとつでサイファーがあの物体Xのことを忘れてくれたのは有り難いと言える。

「なあ相棒」

それでも、無視され続けるのはいい気分じゃない。
大の大人が拗ねたところで気持ち悪いだけだろうが、話を聞かないこいつも悪いんだ。

「サイファー」
「んー?」

サイファーは顔を上げない。
幸せそうに笑いながらスプーンでプリンをちびちび掬っている。
俺の話よりプリンが大事か?
それならこっちにも考えがあるぞ。

「トリックオアトリート」
「んー……え?」

生返事を繰り返していたサイファーがようやく顔を上げる。
それでも話は聞いてなかったらしいので、俺はもう一度言い直した。

「トリックオアトリート。
今日はハロウィンなんだろ。
ほら、菓子かイタズラか、どっちか選べ」

菓子?とサイファーが首を傾げた。
そんなものは無いだろ、と言いたいらしい。
確かに、さっきまでは無かったな。
俺はニヤリと笑ってサイファーの手元を指差した。

「……っ!?」

それで漸く理解したのかサイファーがプリンを自分の後ろへ隠す。
さっきまでは確かに無かった菓子、それが俺の買って来たプリン。
もちろんこんなことを企んでいたわけじゃなく、全くの偶然なんだが。
それでもプリンだって焼き菓子だ、それを利用しない手は無い。
さあ、どうするサイファー。

「ひきょー……だぞ」
「卑怯も何も、そういう祭りだ」

うーと唸って、サイファーは頭を抱えた。
プリンは渡したくないが、イタズラもごめんだって面だ。
そこまで悩むようなことか?
悩む理由が、サイファーにとってプリンが大事過ぎるのか、俺がとんでもないイタズラをしそうだと思っているせいかは定かじゃないが。

「…………」

サイファーは漸く決めたらしい。
プリンを後ろに隠したまま、俺を見ている。
渡す気は無い、ということか。

「イタズラ希望か」

俺が手を伸ばしながら意地悪く言うと、サイファーはぎゅっと目を瞑った。
伸ばした手を見て、俺がしようとしているイタズラはデコピンか何かだ、という結論に至ったようだ。
試しに眉間の辺りに指を近付けてみると面白いくらい大袈裟に反応した。
目を閉じていても気配で分かるんだろう。

「う……」

サイファーは逃れようとするが、すぐに椅子の背もたれに当たってそれも出来なくなる。
俺はサイファーが逃げられなくなったのを見計らい、音を出さないように立ち上がった。
そして出来る限り足音を立てないようにして、サイファーに近付く。
それでも元傭兵だ、さすがに近付かれたことには気付くだろうが。

「…………」

サイファーは、俺がわざわざ近付いたのは強力な一撃を繰り出す為だと思っているらしい。
さっきよりも固く目を閉じている。
さて、どうするか。
俺は少し考えて、サイファーの右肩に手を置いた。

「……?」

サイファーが僅かに眉をひそめる。
自分を油断させる戦略だと解釈したのか、攻撃に備えたまま。
肩に乗る手は片方だけだ、いつもう片方が襲って来てもおかしくは無い。
伊達にこいつの相棒はやってないからな、考えることは多少見当が付く。
こいつは、撃つ前に避ける癖がある。
だから反撃が来るならおそらく、俺が何かをした後だ。
それなら反撃をさせなければいい。
最初の一撃の必中必殺。
それが鬼神を落とす唯一の方法だ。

「サイファー」

俺は空いている方の手をサイファーの額に置いた。
サイファーがグッと身構える。
残念だがこの手はブラフ。
人間、集中している部分以外は呆気ないほど無防備なもんだ。

「いや、」

俺は欠片も警戒されていない耳元に顔を寄せ、名前を呼んだ。
一度だけ聞いたことのある、こいつの本当の名を。

「――ッ!?」

途端に、サイファーが椅子から転げ落ちそうになる。
俺は肩を掴んでそれを阻止した。

「な……お前……」
「効いたか?」

サイファーは自分の名前が大嫌いだと言っていたが、俺は良い名だと思う。
確かに俺も「サイファー」の方が呼びやすいので、普段はそれで通しているが。

「それ……っ!
呼ぶな、て……!」
「だからイタズラなんだよ」

顔を真っ赤にして、サイファーは俺を睨む。
殆ど迫力が無いので、俺は平気な顔で流した。
本気で睨まれると俺もさすがに恐ろしくなるんだが、そうじゃないということは。

「満更でもないんだろ」
「っ馬鹿野郎!
ふざ……っ!」

言いかけて、サイファーが咳き込んだ。
少しやりすぎたか。

「悪い、大丈夫か?」

俺はサイファーの背をさすった。
まだ大声を出すのは無理らしい。
十年間ちょくちょくPJと一緒だったらしいが、そのPJもサイファーが喋るのは殆ど見ていないという。
つまり、サイファーの声はまだ回復していない。
……俺にも責任はあるだろう。

「確かに度が過ぎたな、悪かっ……うぉっ!?」

人がこんなに反省しているのに、サイファーは俺の襟を掴み、思い切り引っ張った。
椅子を掴んで、なんとか転倒は免れる。
無理な体勢を立て直そうとする俺の襟を掴んだまま、やっと咳の止まったサイファーが俺の耳に顔を寄せた。

「……ラリー」

……おい。
俺は固まる。
固まったまま首を動かしてサイファーを見ると、サイファーは勝ち誇ったような
顔をしていた。

「どう、だ」

俺の気持ちが分かったか?
そう言ってサイファーは笑った。
おそらく仕返しのつもりなのだろうが、そうはいかない。

「残念だったな、相棒。
俺はお前と違って呼ばれても平気なんだ」
「……そーかよ」

サイファーが悔しそうに舌打ちをする。
名前を呼ばれること自体は確かに平気だ。
だが、時と場合と相手によるだろ。
サイファーがそれに気付かないよう、俺は笑みを浮かべておく。
それが上手くいったのか、サイファーはむくれっ面のままプリンを口に運んだ。



「オメガ11、あんた凄いところに住んでるわね。
ベランダ越えて悪臭がしたかと思ったら、壁筒抜けで痴話喧嘩が始まるなんて」
「ああ、最近引っ越して来たお隣さんな……。
……正直、慣れて来た自分が怖い」



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