目の前には階段があった。
6分だ。
6分たって0時になったら、こいつを突き落とそう。



Doomsday clock



――9分前。

『あの夢を見た後はいつも何もかもが嫌になる』

サイファーは椅子に腰掛け、スケッチブックにそう書いた。
俺はその隣で、黙って煙草を吸う。
サイファーは震えているようだ。
今日は珍しく眠れそうだ、と言った酒で赤くなった顔は、半時間とたたないうちに真っ青になって戻って来た。
嫌な夢を見たんだという。

『もう1年以上前なのにな』

サイファーの手には文字を書く為のスケッチブックの他に、古い変色したスケッチブックがある。
何年も前の物らしい。
それを今まで持っていたということは、それだけ大切な物だということか。

「それで、せっかく眠れたと思ったらまた目が覚めたわけか」

サイファーは気怠そうに頷いた。
普段のこいつなら苦笑しながら「うるせえ」くらいの反応は返しただろう。
それさえしないとは、本当に参っているらしい。

「どんな夢なんだ?
話せば楽になるかもしれないぞ」

俺は煙草の灰を灰皿に落とした。
サイファーは少し躊躇って、スケッチブックに長文を書き始める。
俺はただ、黙ってサイファーが書き終えるのを待った。

『俺は兄貴と飛んでるんだ。
任務完了して帰還しようとした時に、正体不明の機体が現れる。
兄貴はその正体不明機に挑んで撃墜された。
コクピットに一撃で、脱出の暇も無くだ。
兄貴を撃墜して正体不明機は引き返し始めた。
俺は兄貴の仇を討とうと思った。
正体不明機も兄貴の攻撃を受けてて、今なら簡単に落とせると思った。
でも無理なんだ。
兄貴は攻撃したから襲われた、なら俺も攻撃したらあんな風に殺されるんじゃないかって考えたからだ。
結局俺は攻撃出来ずに目が覚めるんだ』

それは随分と詳しい説明だった。
詳細を記憶出来るほど何度も見ているのだろうか。

『情けない話だ。
傭兵は常に死と隣り合わせで、安全なんてどこにも無いのに。
死ぬのが怖くて傭兵がつとまるか』
「まあな。
だが命知らずの奴はただの馬鹿だ」

サイファーは首を横に振った。
相変わらず、反応が薄い。
ただ、また文字を書き始めたので会話する気はあるらしい。

『それでも、俺は兄貴が少し羨ましい。
俺もどうせなら空で死にたいもんだな』

くるりとこちらに向けられたスケッチブックには、そう書いてあった。
冗談でそんなことをいう奴じゃない。
本気でそう思っているんだろう。
戦闘機乗りならそれが本望だ、と。
俺は少し返答に困った。

「おいおい、俺を置いて逝く気か相棒?
隊長機が撃墜されるなんざシャレにならないぜ」
「……そう、だな」

俺は茶化すようにそう言った。
ようやく笑って口を開くサイファー。
少しは落ち着いたようで、俺は溜め息をついた。

「お前が空で死ぬわけが無い。
なんせ俺が後ろを守ってるんだからな」

短くなった煙草を灰皿に押し付ける。
サイファーは曖昧に頷き、古い方のスケッチブックに視線を落とした。
鉛筆がかすれたのか、ページはどれも黒ずんでいる。
文字ではなく絵を描いていたらしい。
何が、誰が描かれているんだろうか。
スケッチブックを見るサイファーの顔は笑っているような、泣き出しそうな、不思議な表情だった。
こいつが誰かに落とされるのは、死んでも見たくない。
その顔を見て、ふとそう思った。

「死にたいから飛ぶのか、お前は」

ぱっとサイファーが顔を上げた。
既に話は終わったと思っていたらしい。
俺もそう思っていたので、自分の口から出た言葉に驚いた。

「ふざけるなよ、サイファー。
お前は隊長で、俺の相棒だろう。
勝手に死なれちゃ迷惑なんだ」

一体俺は何を言ってるんだろう。
傭兵ならいつ死んでもおかしくないと言ったばかりなのに、無茶苦茶だ。
それでも意思とは関係無く、俺は続ける。

「いいか、お前と俺は二人でガルムだ。
勝手な事考えるな。
そんなに――」

――そんなに死にたいなら、俺が殺してやる。
俺は出掛かった言葉を飲み込んだ。

「あ……そ、だな……悪い」

剣幕におされたのかサイファーが慌てて謝罪する。
いや、と俺は答え、黙った。
空気が重いせいか、サイファーは少し様子をうかがうような顔をしている。
しかし俺はある事実にたどり着いた衝撃の方が大きく、それどころではなかった。
俺は、「別の誰かに」サイファーを殺されるのが嫌なのだ。

『お前の言うとおりだな、悪かったよ』

サイファーは立ち上がり、俺に背を向ける。
サイファーの目の前には階段があった。
こいつや俺の部屋は一階だ。
自分の部屋に戻ろうとしているのだろう。
俺は時計を見た。
針は23時54分を指していた。
あと6分で日付が変わる。

「誰でも死ぬ時は死ぬだろうが、わざわざ自分から死にに行くようなことはよしてくれ」

そう、たとえ鬼神でも、落ちる時は落ちるのだ。
見知らぬ人間のトリガーひとつで簡単に。
……そうか、俺はそれが気に食わないのか。
他人に相棒の命を握られていることが不満なのか。

「頼むぜ、相棒」

念を押す俺にサイファーは頷き、手すりにもたれ掛かった。
誰かに殺されるのは許さない。
それなら、誰にも殺せなくすればいい。
6分だ。
6分たって0時になったら、こいつを突き落とそう。
もう一度、部屋に帰ろうと背を向けた時に背中を突き飛ばせばいい。

「死にたがりの背中を守るほど馬鹿な事は無いからな」

俺はあくまでふざけた会話を続けた。
もちろん俺の考えを悟られない為だ。
さすがに突き落としたくらいで死にはしないだろう。
怪我のひとつでもして、飛べなくなればそれでいい。
骨でも折ってくれれば上々だ。
空に上がれなくなれば、あとはいずれ俺が消し去ってやる。
その時まで地上で平和に暮らせばいい。

「……気をつける」

少し苦笑しながらサイファーがはっきりとそう言った。
俺の考えていることも知らずに。
サイファーは珍しくまだ会話を続ける気らしく、スケッチブックを開かない。

「ピクシー」
「何だ?」
「お前も……死ぬ、なよ」

…………。
お前も死ぬな、だって?
俺はたまらず笑い出した。
サイファーは何故俺が笑っているのか分からない様子だ。
死ぬな?
馬鹿いえサイファー。
もうすぐみんな消えちまうんだ。
俺もお前も何もかもだよ。

「……わらうなよ」
「ああ、悪い悪い」

俺は途端に不機嫌な面をしたサイファーを適当にあしらった。
どうやらサイファーは自分は何もおかしなことをしていない、と思っているらしい。
お前には分からないだろうさ、とは言えないので誤魔化すことにした。
機嫌を取ろうと、後ろからサイファーの肩に手を伸ばす。

「悪かったよ、相棒……」

その瞬間、パシンと乾いた音がした。

「あ……」

サイファーが振り向きながら俺の手を払いのけたのだ。

「…………」

今、俺が手を伸ばしたのはサイファーを宥める為だ。
他意は無い。
日付は変わっていない、だから突き落とす気も一切無かった。
それでもサイファーは俺の手を払いのけたのだ。
何故か、なんて決まってる。
怖かったからだ、後ろから伸ばされた手が。

「わ……悪い」

サイファー自身も驚いたらしい。
しかしその手は震えている。
震えを誤魔化すように、サイファーは聞いてもいない言い訳を始めた。

「昔……その、後ろから……」

ぽつぽつと喋った言葉を総合するとこうだ。
昔後ろから殺されかけたので、無意識に警戒してしまう、と。
結局、無意識とはいえ死にたくないんだ。
我が儘な奴だな。
……しかしこいつは、そんな背中を俺に任せてるのか。

「言っただろ、相棒。
お前の後ろを守るのが俺の仕事だ」

俺は頭をかいた。
もう0時だが、さっきまでの考えを実行する気分じゃない。
すっかり毒気を抜かれてしまったようだ。

「ほら、もう寝ろ。
明日も早いんだ」
「ん……」

サイファーは最後にもう一度謝り、階段を駆け下りて行く。
突き飛ばせば派手に転げ落ちるだろうが、今日はもうそんな気にはなれなかった。
サイファーがいなくなったのを確認し、俺は新しい煙草に火を点ける。
誰もいない階段の上は静かで、考え事をするにはうってつけだ。
――何も飛べなくすることは無い。
あいつに勝てる人間などしばらく現れないだろう。
現れても、俺がいる限り落とさせはしない。
薄暗い空中に煙が溶けるのを見ながら、俺はひとつの結論にたどり着いた。
そうだ、俺がサイファーを殺すまで守ってやろう。
あいつは放っておけばいつか俺の邪魔をしに現れるだろう、その時に望み通り空で殺してやればいい。
考えてみれば簡単なことじゃないか。
気付かなかった自分の間抜けさに、思わず忍び笑いをもらす。
そう、それであいつも満足するだろうさ。
何も難しいことは無い、いつでも背後は取れるのだから。



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